主日礼拝
5月19日 午前10時30分より
メッセージ:「仕える者のように」
聖書:ルカによる福音書22章24-30節
説教者:小野慈美牧師
1)プライド(驕りたかぶり)の問題:弟子たちは、最後の晩餐の席で「誰が一番偉いか」と議論していました。彼らの心の根底にあるのはプライドです。この場合のプライドとは、自分を大きくしようとすること、人より優位に立ちたいという心の在り方です。この生き方は、他人を押しのけ、恥をかかせ、傷つけます。また、「いじける」のもプライドの裏返しです。自分がふさわしく扱われていないと感じる態度だからです。
主イエスは、「偉い人」になること自体を否定しているのではありません。組織には上に立つ役割が必要です。しかし、キリスト者、特に教会の指導者は、「若い者」、つまり立場の下のものように仕えるのです。
2)仕えることの意味:「仕える者」(26)、「給仕する者」(27)と訳されているギリシャ語は、同じ言葉であり、教会の執事の語源となりました。つまり執事とは、偉い者としてではなく、仕える者として役割を担う者です。主イエスは、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われました。本来、僕がする仕事を、あえて主であり先生であるお方がなさいました。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(フィリピ2:3-5)。私たちは、この主に倣うのです。
3)聖なる誇り:私たちは、罪人であるにもかかわらず、主イエスに仕えていただきました。パウロは自分を「罪人のかしら」と言っています。パウロを始め、世々の伝道者たちが伝えてきたのは、神様の徹底的な赦し、忍耐強い愛です。この愛は、序列や立場に左右されない変らぬ価値を人間に与えます。その愛を知るとき、私たちは「聖なる誇り」を与えられます。主イエスは、私たちを拒まず、裁かず、むしろ私たちが受けるべき裁きを引き受けてくださいました。ですから、私たちも人を裁くことをやめるのです。裁く態度とは、自分が優位に立って、あたかも「偉い者」であるかのようにして相手の問題を指摘する態度です(事柄の是非を問うてはならないということではありません)。主イエスは、仕えるに値しない弟子たち、そして、他ならぬ私たちに仕えてくださいました。私たちも聖なる誇りをもって、「仕える者」となりましょう。
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前 奏 - 来ませ、聖霊よ、主なる神よ - F.W.ツァハオ
招 詞 ローマの信徒への手紙 第12章2節
賛 美 21-18(1,2,3節)「心を高くあげよ!」
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第119編33-40
賛 美 - 主に向かって歌おう! - アイオナ ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21-319 輝きのこの日
聖 書 ルカによる福音書 第22章24-30節 (新共同訳新約 154頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「仕える者のように」 小野 慈美 牧師
祈 祷
任 職 式 教会役員(執事・監事)
賛 美 21-487 イェス、イェス
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-26(アーメン) グロリア、グロリア、グロリア
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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