「方向性を問う!」

森 島 牧 人 牧師

  マルコによる福音書によれば、神の国の到来が告げられたのは、<中心で>ではなく、<辺境へ>であった。また弟子達が復活の主に出会い、神の言葉を聞く場も、権威と権力を象徴する都<エルサレム>でなく、辺境の地<ガリラヤ>であった。
 辺境の地ガリラヤとは、主の弟子たちにとっては<方言が使える地>という意味あいを持っていよう。もっとも、主イエスに対するペテロの裏切りのきっかけも、そのガリラヤ訛りであったが・・・。しかし、人が神と出会う場所は、<生(なま)の自分>でいられる場所、つまり特殊なところでなくその日常性の只中においてである。限られた、ある特定の時間と空間が必要なのではない。むしろそのままの自分が、神の言(ことば)と出会うのである。
 復活の主に出会った群れの中にも「疑う者がいた」(28:17)と、マタイによる福音書は伝える。然り。新しい神の民、教会も、義人の集まりではない。<赦された罪人>の群れである。それ故、「健康な者に医者はいらない」と言われる主は、我らの日常性の只中に<来られる>お方である。つまり我らが神を見出すのではない、神ご自身が我らを捜し求めて来られるのである。我らは皆、神に見出された者なのである。
 天より下り我らに近づき、我らをその支配(神の国)の内に入れたもうお方は、また、その群れを<派遣>されるお方でもある。派遣である以上<目的>がある。派遣である以上<方向性>がある。その目的と方向性への正しい認識が大切であろう。我らにとって、まずは、この丘に<上る>目的がここで胡座をかく事ではなく、この丘で出会う我らの主と共に<下ること>にあることを覚える必要がある。

おちぼ109号より

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