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万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。 イザヤ書9章6節 |
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「平和」を願うのはいつの時代も同じです。古代イスラエルにおいても、人々は、戦争の無いことを願っていました。ヘブル語でシャロームという。日常の「こんにちは」「さようなら」といった挨拶の言葉として使われています。もともと平和を意味する言葉です。それには理由がありました。 古代イスラエルはたいへん小さな国でした。神がイスラエルをお選びになった理由は、それが他の国よりも貧弱な民だった故とあります。パレスチナは、メソポタミアとエジプトとの通路の国であり、二大勢力がしばしばぶつかり戦争になりました。その戦争に巻き込まれるということがよくありました。そこでイスラエルの人々は、「今日は、平和(シャローム)であるように」ということを、願ったのです。そこに由来して、シャロームは挨拶の言葉となりました。 預言者イザヤの時代(紀元前8世紀)は、メソポタミアにアッシリアという非常に強大な国が興り、周辺世界のイスラエルは戦火に苦しんだ時代でした。ガリラヤの住民は、多くは農民で武器もなくほとんど無抵抗の人々でした。そのような村にアッシリアの軍隊が侵略と殺戮の限りを尽くしたのです。食糧を略奪されて、飢えに苦しんだ人々が大勢いたのです。 しかしこれは、昔のことだけではありません。現在においてもこのような悲劇は、多くの地域で起こっています。 アッシリアに苦しめられたイスラエルの人々の問いは、「神は彼らをその苦しみのままに放置するだろうか」というものでした。このような絶望の中から出された問いに、イザヤは「神は神を信じる者たちを決して見捨てない」と答えました。 聖書において、平和は、単に戦いのない状態を言うのではありません。その平和は、神との平和に基づいたものであり、それは、神との関係において、真に望ましい状態を指しているのです。「平和は絶えることがない」と言われています。一時的な平和ではなく「絶えることのない平和」をイザヤは預言しています。主なる神は、そのような「絶えることのない平和」を打ち立てることのできるお方である、ということを彼は確信していました。人間の力ではなく、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。イザヤは主に全く信頼していたのです。主にしっかりと信頼するならば、そこに真の平和が打ち立てられるのです。 おちぼ114号より |
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