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「主イエスの目線で生きる」 |
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牧師 森島牧人 | ||||||
私たちにとって大切なものは、「信仰、希望、愛」であります。「その中で最も大いなるものは愛である」と使徒パウロは語りました。イエス・キリストの体なる教会、愛の神の体として形作られる教会は、まさに「愛」の共同体なのであります。 最後の晩餐において主イエス自らが示された愛は「仕える姿」です。仕える者とは、聖書では<υπηλετηs(フェベレーテース)>という言葉が用いられていますが、これは、υπο(フュポ)(下の)+ελετηs(エレテース)(漕ぎ手)です。つまりこの言葉は、古代の戦艦内での最下部の奴隷の有り様を示しているものです。そこにあるものとは、最下位の奴隷のように仕えるものであり、その働きを通して、この世に<仕える者>であると言えましょう。その視点は、上からではなく底辺から、中心からではなく辺境からのものであります。その意味で「万人祭司」を謳う私たちの教会は、<派遣される群れ>なのです。その姿勢は、主と共に<下る>ことにあります。 この姿に生きるためには何が必要なのでしょうか。聖書はこの問いに答えて、「主のものとなる」という道を示しています。使徒パウロはキリスト者 の生き方を「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」のだと説き、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と教えます。ここに宣教する教会の姿勢があります。 教会はこの姿勢の中に生きてきました。50周年でその祝福の時である「ヨベルの年」を祝いました。そして、今、信仰の先達たちの掲げた宣教の幻を確認しつつ第2のヨベルの時を目指しています。教会が幻を持ち続けるとは、信仰のなせる業であり、信仰を持ち続けるとは、希望のなせる業であります。そして希望は、神の愛への感謝の上にあります。 60周年とは、信仰の先達たちの上に示された神の愛の確認であり、同時にその恵を数える感謝の思いから愛への応答としての信仰的確信、希望へ向かう踏み切り板であります。つまり60年前、この栗田谷の丘に宣教の幻を抱いて集まり、ここに捜真教会を設立した人々がいたという事実、その歴史を憶えることの内に、今を生きる希望があるように、100周年を迎えるために集る者は、ここにいる、今の私たちがいかに生きたかを憶えることによって、教会の新しい幻を語り始めるからです。これが教会の歴史であり、伝統であります。 |
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おちぼ118号より | ||||||
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