「神の時を生きる」

牧師  森島牧人
  今ここに集う私たちは、様々の思いはあるにしても、捜真バプテスト教会という空間を共有し、同じ時を生きてきた者であります。ここで素晴らしい時を共に刻んで来られた皆さま方には、また今日から始まる、その未来の上にも、祝福に満ちた豊かな時がありますように、願わずにはおれません。

 さて、私たち現代人にとって、時間は大切なものであり、また時に厄介なものでもあります。聖書の中にも「時間」を表す言葉がいくつか出てきます。新約聖書は古いギリシャ語・共通語「コイネー」で書かれていますが、その中で時間を表す代表的な言葉は二つあります。その一つは「クロノス」と言い、現代人である私たちには比較的なじみのある概念です。それは、基本となる、単位を同じくするものが、帯状に連続して延々と続いているというイメージです。つまりAはAであり、A以外のなにものでもない。1分は60秒であり60秒以外のなにものでもない。1時間は60分で60分以外のなにものでもない。アメリカでも、フランスでも、中国でも、私たちは世界中どこへ行っても同じ。合理的に時間を共有することが出来ると言う訳です。

 “Time is money”「時は金なり」とは、100ドル札に描かれたベンジャミン・フランクリンが残した名言でありますが、まさに学生のアルバイトであれば、1時間は850円であり850円以外のなにものでもない。月曜に働いても1時間850円。水曜に働いても1時間850円です。ですから、もし何か都合が悪くなれば、他の曜日の友達に頼み、自分のシフトと変わってもらうでしょう。1時間は850円であり850円以外のなにものでもないからです。私たちは、自分の都合のいいように、合理的に時間を使うのです。あたかも私たち人間が、時間の主人にでもなったかのような錯覚に陥ることさえあるのです。

 さて、今、私の時計では午後1時35分です。この午後1時35分は、昨日もありました。一昨日もありました。明日も、たぶん明後日もあるでしょう。ですから今日できなければ、明日にすればよいと考えます。それも計画の内というわけでしょう?

 
しかしよく考えると、いま私たちの目の前を通過していった、あの午後1時35分は、私の、否、私たちの一生の中ではもう決して戻らない一瞬なのです。決して繰り返すことのない、一回限りの大切な時間、与えられた時、これがもう一つの時間を表す「カイロス」という言葉です。実は、人間は時間の主人ではないのです。この一瞬一瞬は、私たちの輝きのために備えられた、用意された大切な「時」、カイロスなのです。

 「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」で始まる旧約聖書コヘレトの言葉に、このカイロスについて語っている一文があります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、・・・こわすに時があり、建てるに時があり、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、・・・求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。・・・」

そして最後に、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」と言う。しかし、「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」と語るのです。 一瞬一瞬を、神から頂いた「恵の時」とするように、「キリストの香り」を放つまことの人として、神の時、この「カイロス」を真剣に生きてまいりましょう。お一人お一人の歩みの上に、神の御祝福が豊にありますようにお祈り致します。
おちぼ120号より
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