どこか聞き慣れた言葉でした。それが何と、“God bless you!”

アカ族の村に行ってきました

聖歌隊 菊池美穂子

2007年2月20日、私は初めてタイの地に降り立ちました。タイの山岳少数民族のことについては度々牧師先生のお話から耳にはしていましたが、まさか自分がタイへ行くとは想像もしていませんでした。ただ、タイの山岳少数民族のクリスチャンの人たちが日本の教会のために祈っていてくれているということ、村の人たちが何よりも教会を欲している、ということを伺っているうちに、山岳少数民族のクリスチャンに会ってみたい、という気持ちはますます強くなっていきました。

 村のクリスチャンたちが何よりも教会を欲しているということに喜びを感じながらも、どうして村に教会をつくるのか、タイに行く前も現地で活動している間もずっと疑問に思っていました。教会という「建物」にどうしても意味を見出せなかったからです。教会がなくても、村のクリスチャンは、信仰さえあれば礼拝を続けられるだろう、と思ったからです。
 タイ北部のチェンライ市はミヤンマー(ビルマ)との国境に近い観光都市です。市内から4WDトラックの荷台に乗って約2時間、アカ族ドイチャン村に私は到着しました
竹と葉っぱで出来た粗末な住居が山の斜面に点在する小さな村です。民族衣装を着たおばあさん達や小さな子供たちが私たちを歓迎してくれました。教会の骨組みはほぼ完成していて、私たちは村の大人や子供達と一緒になって、砂と砂利をバケツリレーをして運び、コンクリートを捏ねて床に流しました。夕食の後は子供たちや村人と讃美歌を歌ったり、踊ったり、クリスチャンの人もそうでない人も含めて、楽しい交わりの時を持ちました。

 献堂式の前の晩、宿泊した家の婦人が涙ながらに話してくれました。「村に教会ができて、本当にうれしい。」またある男性は「私たちはまだイエス様のことをあまり知らないけれど、これからもっともっとイエス様のことを勉強したい。」と話してくれました。村に教会を建てるということは、長い間、村のクリスチャンたちの祈りの課題であったのです。思いを一つにして祈り、そしてその祈りを今彼らは実現できたのです。また教会をつくるためにクリスチャンではない多くの村の人たちが手伝っていたこともとても印象的でした。

 ところで私たちの日本の教会はアメリカの宣教師が生涯をかけて土台を作りました。
言葉もほとんど分からずに、誰も知らない土地で、今までの生活を全て手放して、何が起こるかも分からない日本の地で、ただイエスのことを伝えようとやって来た宣教師の方々の信仰の厚さを私は思わずにはいられません。宣教師たちの生涯をかけての宣教があったからこそ、今私もこうしてクリスチャンとして歩んでいけるのです。

 タイを訪問する前に、ある宣教師の伝記を読む機会がありました。そこから学んだことは、かつて日本での働きに生涯を捧げた宣教師が、困難の中にあった時、喜びの中にあった時、いかに生活の中に祈りが密着していたかということでした。バンコクでスラム街にある保育園を日本人宣教師と訪問した時、その宣教師の方が「この保育園のために具体的に祈れることはありますか」と質問されました。
それは私にとって日本の教会にあって、いかに自分が祈ることから離れていたか、そして祈ることがいかに大切なことかを思わされた時でした。

 チェンライでは私たちは、山奥の村の子供たちを街の学校に通わせるための子供寮に宿泊していました。寮はキリスト教でした。でも、タイの宗教は仏教です。寮で仲良くなった子供が「私は仏教だよ」と話してくれたので、私はクリスチャンとして交わることを諦めていました。ところが寮の子供達と別れる寸前に、仲良くなった子供が“Godbless you!” と別れ際に言ってくれました。はじめは何を言っているのか分かりませんでした。タイ語で話していると思いきや、どこか聞き慣れた言葉でした。それが何と、“God bless you!” だったのです!嬉しい、何よりも喜びでした。私は、どうか神様がいつも彼女のことを守っていてくださるように、彼女がいつまでも神様につながっているようにと、今、心から祈っています。

Responsibility for a text: MIHOKO KIKUCHI Soshin Baptist Church Choir
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