主日礼拝(イースター礼拝
4月21日 午前10時30分より
メッセージ:「残された亜麻布」
聖書:ルカによる福音書24章1-12節)に
説教者:小野慈美牧師
主イエスの復活は、にわかには信じがたいことですが、決して架空の作り話ではありません。歴史に類を見ないことであり、人間の知識や経験を超えているために、認識できないのです。人間に理解可能な説明としての「蘇生」や「魂(霊)の復活」なのではありません。
「空虚な墓」と「残された亜麻布」の事実は、そのできごとが幻ではないことを示唆しています。しかし、それは主イエスがよみがえったことの「証拠」にはなりません。よみがえった主イエスとの出会いという体験があって、初めてこれらの事実が意味をもってくるのです。
このように、主イエスの復活がどのようなものであったのかは客観的には知りえませんが、私たちにとってどのような意味があるのかを主イエスの十字架上の言葉を通して考えてみましょう。
①「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)
②「あなたはきょうわたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)
主イエスのよみがえりとは、これらの言葉をお語りになった主がよみがえったということです。
つまり、主のよみがえりを信じるとは、十字架の言葉を語られた主が生きておられる、十字架の言葉が、今、ここで私に出会ってくださると信じることです。そこには二つの約束が示されています。
①罪の赦しの約束。十字架による罪の赦しが、単なる救済の理論ではなく、事実だということです。人間の罪を赦してくださったお方が復活なさった。そして、今も赦しを宣言しておられる。私たちが人生を振り返るとき、悔やまれて仕方がないことがある。しかしどうすることもできない。それに対し、主は赦しの宣言をしてくださいます。「わたしはあなたのその罪の赦しのために死んだのだ」と。
②共におられるという約束。詩23:4には、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とあります。私たちは死の陰の谷を歩まされることがあります。しかし、苦難や災いは神が自分を見捨てたということではないのです。復活の主は苦しみを知るお方として生きておられる。困難の中にいる者に対し「今一緒にいるし、死ぬ時も一緒だし、そして死んでからも一緒だよ」と言ってくださいます。これが永遠の命の約束です。
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前 奏 - ハレルヤ、ハレルヤ - 高浪晋一
招 詞 コリントの信徒への手紙Ⅰ 第15章3-5節、8節
賛 美 21-328 ハレルヤ、ハレルヤ(たたかいは終わり)
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第31編20-25節
賛 美 - 勝利の声を~主の復活ハレルヤ - 聖 歌 隊
教会の信仰告白
転入会式
分かち合い
賛 美 21-327 すべての民よ、よろこべ
聖 書 ルカによる福音書 第24章1-12節 (新共同訳新約 159頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「残された亜麻布」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-333(1,3,4節) 主の復活、ハレルヤ
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-25 父・子・聖霊に
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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