3月16日(日) 午前10時30分より
主日礼拝(受難節第2主日)
3月16日(日) 午前10時30分より
説 教:「この男に何の罪も見いだせない」
聖 書:ルカによる福音書22章66節-23章5節
説教者:小野慈美師
聖書で「(正)義」と訳されているヘブライ語の“ツェダーカー”という言葉は、「ものごとを正しい状態にする」という意味だけでなく、「憐れみ」「救い」という意味も含んでいます。つまり聖書の正義は、決して自分の正しさを振りかざして、相手を裁く態度ではありません。人間を本来の正しい在り方に導くために、憐れみをもって救い出そうとする心です。しかし、多くの場合、わたしたちは、自分の側の正しさだけで、他者を裁き、打ち倒そうとします。ユダヤ人の指導者たちは、自分たちの正義を掲げ、主イエスを「神を冒涜する者」として裁き、無き者にしようとしました。
それに対し、ローマの総督であったピラトは「この男に何の罪も見いだせない」と言います。皮肉にもピラトは自分の意図を超えて、正しいことを言っているのです。主イエスは、罪なきお方であるにもかかわらず、人間の掲げる正義のゆえに、十字架につけられました。わたしたちが、裁き合い、傷つけ合っているとき、実はわたしたちは主イエスを傷つけているのです。主イエスがもたらそうとされた愛を壊しているからです。
マタイ18:21−35に「仲間を赦さない家来」のたとえがあります。一人の家来が王から一万タラントン(六千万デナリオン)の借金をします。しかし、王は彼を憐れみ、その借金を帳消しにしました。ところが、その家来は、仲間に貸してあった百デナリオンの借金を赦しませんでした。彼は不法なことをしているわけではありません。その意味では自分の正義を貫いているのです。しかし、彼は直前に王から受けた「憐れみ」という正義を忘れています。
罪のないお方がわたしたちの一万タラントンの負債を赦すために十字架につかれました。そして、わたしたちは、他者の百デナリオンの負債に対して、憐れみと赦しという正義をもって関わっていくよう召されているのです。
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前 奏 − おお、汚れなき神の小羊よ − ルンプフ
招 詞 イザヤ書 第55章8−9節
賛 美 21−309
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第115編
賛 美 21−432
分かち合い
賛 美 − 十字架より叫び聞こゆ − ジュニア聖歌隊
聖 書 ルカによる福音書 第22章66節−第23章5節(新共同訳新約 156頁)
祈 祷
黙 想 − 恵み深きイエスを迎えよ − バッハ
説 教 「この男に何の罪も見いだせない」 小野 慈美 師
祈 祷
賛 美 21−300
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−25
祝 祷 小野 慈美 師
後 奏
教会学校は今年度最後となりました。伝道師を囲んでの中高青年科。
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