主日礼拝
6月21日(日) 午前10時30分より
説 教:「ほんとうの休み」
聖 書:マタイによる福音書11章28-30節
説教者:小野慈美牧師
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28)という言葉に導かれて教会を訪れた方もおられるでしょう。しかし、生きている限り、重荷が全く無くなるということはありません。したがって、「休ませてあげよう」の「休み」は、一切の重荷から解放されることではありません。困難な事柄を自分だけで担っていこうとすると、「重荷」でしかなくなりますが、それを主のもとにもっていくと、不必要な重荷を取り除かれると共に、真に負うべきものを主の「軛(くびき)」として受け止めることができるのです(わたしの軛を負い、わたしに学びなさい)。「軛」とは、牛やろばの首に付けて、鋤、車を引かせるために使用する木製の道具(民19:2)です。同じ位の体格の二頭の家畜を軛でつないで、鋤や車を引かせました。頑丈な横木の下方にくぼみを作り、その部分を家畜の頸部に載せて縄などで固定しました。
①軛は固有の使命です。他の人と比べても意味がありません。また、軛は無理やり負わされる重荷ではなく、与えられた使命です。「わたしの軛は負いやすく」:大工としての主イエスはくびき作りの名人であったという言い伝えがあります。良い軛は個々の牛にぴったり合うものであり、その牛の力を最も良く引き出すものでした。主が与えてくださる軛は、わたしたちが孤独に背負う苦難ではなく、主が知っていてくださる使命です(「わが悩み知りたもう、そは主イエスのみ」讃美歌二編210)。
②軛はわたしたちを主と結びつけます。信仰者として生きることは、けっして楽チンな生き方を保証されるわけではありません。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、「恵みとして」与えられているのです」(フィリピ1:29)。苦難は、主が遠ざかっているしるしなのではありません。わたしたちが軛を負う時に、主イエスは、どこにおられるのでしょうか。後ろから手綱や鞭でわたしたちを動かしておられるのではなく、軛のもう片方を一緒に負っていてくださるのだと思うのです。
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前 奏 - プレリュード - K.H.チェルナー
招 詞 ローマの信徒への手紙 第12章1節
賛 美 21-51
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第23編
賛 美 21-56
分かち合い
賛 美 - シャロンの花 - ジュニア聖歌隊
聖 書 マタイによる福音書 第11章28-30節 (新共同訳新約 21頁)
祈 祷
黙 想 - 愛するイエスよ - M.G.フィッシャー
説 教 「ほんとうの休み」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-532
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-394(1,3節)(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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