主日礼拝
3月13日(日) 午前10時30分より
説 教:「互いに仕えなさい」
聖 書:ペトロへの手紙I 4章1-11節
説教者:小野慈美牧師
終末のときには、「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に申し開きをしなければなりません」(6)。主イエスが再び裁き主として戻ってこられる(再臨)からです。このお方の前ではすべてが明るみに出され一切のごまかしは効きません。わたしたちのうわべの言葉や行いの奥に隠れているわたしたちの本音が示されるのです。しかし、その裁き主は同時に救い主であられます。裁き主であり、救い主の前で、わたしたちがどう生きるべきかが以下に示されています。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(8)。
「愛は多くの罪を覆う」という言葉の主語である「愛」は、なによりもまず、キリストの「愛」です。罪を覆うとは、罪をあいまいにすることではありません。神の前に立つとき、まず自分の罪があらわにされます。そして、その罪が既に十字架によって覆われていることを知るのです。わたしたち一人一人は、キリストの愛によって罪を覆われた者として神の前に立つのです。その上で、互いの罪を覆うということは、神の前で互いに悔い改めをすることです。その正反対が裁きあうことです。問題を取り上げることが悪いのではありません。裁きとは、愛の無い仕方で、自分が高い位置に立って相手の問題を批判する態度です。イエス様がなぜあれほど、パリサイ人と闘われたのかというと、彼らが「自分たちだけが正しい。自分たちには罪が無い」というような態度で生きていたからです。
「不平を言わずにもてなし合いなさい」(9)。「互いに仕えなさい」(10)。誰かに何かをする場合、恩着せがましくするならば相手に負担を与えます。また期待したような褒め言葉やお礼がないと不満を感じ、「恩知らずな奴め」という不平が生まれます。相手に重荷を感じさせる愛は自己愛の延長です。自分自身が罪を覆われ神に愛されているということを忘れると、わたしたちは見返りを求め不平を抱くようになります。キリストの愛は「わたしの罪」を覆ってくださったという原点に返りましょう。
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前 奏 - 我は心より願う - D.ブクステフーデ
招 詞 詩編 第130編1-4節
賛 美 21-298
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第64編
賛 美 21-294
分かち合い
賛 美 - ひとり負いぬ - 聖 歌 隊
聖 書 ペトロの手紙Ⅰ 第4章1-11節 (新共同訳新約 432頁)
祈 祷
黙 想 - 我は心より願う - J.パッヘルベル
説 教 「互いに仕えなさい」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-530
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-92(1,3節)(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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