主日礼拝
11月13日(日) 午前10時30分より
説 教:「ナザレのイエスの食卓に招かれて」
聖 書:マルコによる福音書2章21-35節
説教者:篠遠順花神学生
イエスはガリラヤ地方で多く宣教されました。幼い頃のイエスが家族と共に過ごしたナザレの町であり、主イエスの癒しの御ことばと行いがなされたカファルナウムの町や、大勢の群衆の前で説教されたガリラヤ湖の周辺でした。小さな「ナザレの町」は、他国の人々との交流が頻繁に行われ、多くの異邦人と触れ合う地理的環境のゆえに、ユダヤ教の人々から蔑まれて来た町でした。
イエスが湖のほとりで、群衆を教えられてから、通りかかりに、収税所に座っているレビを見て「わたしに従いなさい」の一言で、彼は立ち上がってイエスに従いました。人々は徴税人であるレビに直接触れることさえ避けていました。人としての人格までもが、否定され、人々からの厳しい視線に耐え忍んで生きていました。そのレビを、主イエスは見ておられ、傷ついたこの孤独な男の名前を覚えて声をかけてくださいました。レビはその主イエスの人格に触れ、主イエスの声が聞こえた時、もはや、無に等しい人ではなく、一人の尊い命ある存在として認められたその喜びが、彼の生き方を変えたのです。
マルコによる福音書の2章15節で、イエスがそのレビの家で、多くの徴税人や罪人、弟子たちと同席していました。このような主イエスの食卓の様子を見ていたファリサイ派の律法学者が、ユダヤ人である主イエスが、考えられない常識破りの会食をしているのを見て驚いて、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問しました。当時のユダヤ教の人々の会食は、非常に重要視されて、その人が誰と食事をするかによってその人の社会的地位が推測され、律法を守らない異邦人や、彼らと触れる人と共に会食することは、当時のユダヤ教の共同体では常識外れの行為でした。
律法学者らの質問に、イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えました。主イエスは、人々を隔て、排除する社会構造の境界を乗り越えて、イエスご自身が汚れの側に立って「隣人とは誰か」と、わたしたちに問いかけているのです。ユダヤ教の人々から忌み嫌われていたナザレの町で、神の独り子であるイエスは、大家族の長男として、貧しさと差別による二重の苦しみを、甘んじて受けられました。人として産まれ、人の悲しみと苦しみを御自らが身をもって体験され、最後は十字架に架かって血を流され、死に至るまで悶えて苦しみながら死なれたその方が、わたしたちの救い主イエス・キリストです。
「わたしが喜ぶのは、愛(憐み)であって、生贄ではなく、神を知ることであって、焼き尽くす捧げ物ではない」、主イエスはこの神の意志を、わたしたちに見える形で示し、わたしたちが隔ての壁を造り、偏見と差別の突き刺さる視線で、イエスの食卓に招かれた人々を裁いている時でさえ、イエスはわたしたちのために執り成しの祈りを捧げているのです。その憐れみ深い方がわたしたちの救い主です。
もし、わたしたちが、レビや、重い皮膚病の人や、耳が聞こえない人、汚れの罪人を区別して、「あの人たちと私たちは違う」と、線を引いたら、イエスの食卓の外に立っているファリサイ派の律法学者と何が違うと言えるのでしょうか。霊と真理をもって礼拝することは、わたしたちの都合に合わせて礼拝することではなく、神の御心に適った礼拝を献げることではないでしょうか。
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前 奏 - 神はわがとりで - J.N.Hanff
招 詞 ホセア書 第6章6節
賛 美 21-475
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第118編
賛 美 - 刈り入れの主よ - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-389
聖 書 マルコによる福音書 第2章13-17節 (新共同訳新約 64頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「ナザレのイエスの食卓に招かれて」 篠遠 順花 神学生
祈 祷
賛 美 21-434
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-393(1,4節)(アーメン)
祝 祷 長谷川 温雄 師
後 奏
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