主日礼拝・聖餐式
5月6日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「どのように祈ったらいいのですか?」
聖 書:ルカによる福音書11章1-4節
説教者:小野慈美牧師
①「父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。」(2節)
「父よ」、という呼びかけそのものが既に親子のような関係性を前提しています。人間の側からは、親しく「父よ」と呼びかけ、神が「我が子よ」と応えてくださる関係です。漠然とした神ではなく、イスラエルを導いた「ヤハウェ」という名前を持つ生ける神に対する信頼の呼びかけです。
②「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」(3節)
具体的に祈ることが許されています。しかし、祈りは単なる願掛けではありません。願いさえかなえば良いという身勝手な祈りは真の祈りではありません。わたしたちの願いが正しいかどうかが問われねばならないのです。身勝手な祈りから守ってくれるのが、①の祈りであり、神を神とする姿勢です。何を祈るかという前に、誰に祈るかが大切なのです。わたしたちの創造者であり、主であるお方を前にして信頼して祈るのです。その神のお考えが実現しますようにという祈りの上に立って、②を祈るとき、人間の願いが単なる願掛けとは違ってきます。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(Ⅰヨハネ5:14)。
③「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(4節)
人間は神の前では例外なく罪人です。「罪を赦してください」という祈りは、気づいている罪を赦してくださいというだけでなく、気づかずに犯している罪を示してくださいという祈りでもあります。自分が神に負い目がある者であることを知るとき、他者を上から目線で裁くことはできなくなります。
④「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」(4節)
誘惑、試みとは、わたしたちを神様から引き離そうとする闇の力です。そして、最大の誘惑は高慢です。称賛をうけることも誘惑となります。なぜなら、称賛を受けるとき神に栄光を帰すことをせずに、自分が何者かであるかのように勘違いするからです。また、高慢とは、人間関係における赦さない心、自分は悪くないという思いです。「赦すまいとする誘惑から守ってください。自分の非を決して認めようとしない誘惑から守ってください」という祈りでもあります。
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前 奏 - 天にいますわたしたちの父 - J.ヴァインマン
招 詞 エレミヤ書 31章33節
賛 美 21-497 この世のつとめ
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第15編
賛 美 - 来たれ聖霊、わが主 - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-341 来たれ聖霊、わが主
聖 書 ルカによる福音書 第11章1-4節 (新共同訳新約 127頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「どのように祈ったらいいのですか?」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-62 天にいますわたしたちの父
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 21-79 みまえにわれらつどい
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21-345(アーメン) 聖霊の力にあふれ
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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