主日礼拝
7月15日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「主人の帰りを待ちながら」
聖 書:ルカによる福音書12章35-48節
説教者:小野慈美牧師
主イエスは復活後40日間、弟子たちにご自身を現されたのち天に帰られました。そのとき「再び帰ってくる」という約束が与えられました(使徒1:9-11)。この約束を再臨といいます。
初代教会の人々は、再臨は比較的近いと考えていました。しかし、なかなか再臨が実現しないので次第に緊張感が失われ、さらには「再臨などない」という考えも出てきました。そこで、ルカはこの記事を書き残すことによって、警鐘を鳴らしているのです。
ユダヤ人の婚礼は長引くことが多かったので、主人がいつ帰ってくるかは予測できませんでした。したがって、忠実な僕は、いつ主人が帰ってきてもよいように待機していました。「目をさましている」僕は42,43節の「賢い管理人」に、不忠実な僕が45節に例えられています。不忠実な管理人は、主人の留守をいいことに、自分が僕であることを忘れ、自分よりも弱い立場にある者に暴力をふるいます。
親は子に対して、教師は生徒に対して、上司は部下に対して、支配権を与えられているのではありません。親や教師や上司は、必要に応じて指示や命令をすることはありますが、管理する役割を与えられているだけであることを忘れてはなりません。あくまでも主人ではなく僕なのです。
37節の主人の姿は、最後の晩餐で主イエスが弟子の足を洗ったことを思い起こさせます。それは奴隷の仕事だったので、弟子たちは誰もその役を引き受けようとはしませんでした。私たちも、偉くなろう、支配しようとする愚かな者です。その愚かさは、主イエスに足を洗っていただくことによって初めて気付かされます。本当の意味で支配する権利を持っておられる方がわたしたちに仕えてくださったのです。
主人の思いを知るということは、この主イエスの姿を忘れないことです。しかし、それは、ただ単に謙虚に人に仕える姿勢を学ぶというのではありません。主人を忘れて、人との関係だけで、謙虚になろうとする姿勢には、しばしば、傲慢や偽善のにおいが残るものです。それは「自分は、本当はもっと上の立場の人間なのだけれど、今、あなたと同じ立場に立って仕えてあげているのだ」というような思いです。傲慢でもなく、屈辱でもなく、人に仕えることができるのは、自分が僕であることを本当に知っている者です。そして、本当の主人の帰りを楽しみに待つことができる者です。
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前 奏 - 天にまします我らの父よ - D.ブクステフーデ
招 詞 箴言 第16章2-3節
賛 美 21-432 重荷を負う者
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第34編1-15節
賛 美 - 主に賛美 - ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21-413 キリストの腕は
聖 書 ルカによる福音書 第12章35-48節 (新共同訳新約 132頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「主人の帰りを待ちながら」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-475 あめなるよろこび
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-564(1,3節)(アーメン)イェスは委ねられる
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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