主日礼拝
12月30日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「涙された主イエス」
聖 書:ヨハネによる福音書11章17-37節
説教者:長谷川温雄師
教会では礼拝と説教とはセットになっています。今日は人の子イエスから人間学的な土台を通して、解き明かします、それは「神の子」イエスから説き始めるのに向かい合っています。人間の終末を問題とする時、「復活」の前に、人の子の苦悩を負い給うた方から始めたい。聖書全巻には「人の子」という表現は406件で圧倒的に多く、このうち新約が99回、新約の内「人の子イエス」は4福音書だけで83回に及んでいます。これを「神の子」に比較すると旧約77回、新約の「神の子イエス」は大体復活後の呼称であります。「人の子イエス」を極めてゆくことの必要性を痛感いたします。
その例としてラザロの復活を取り上げてみました。
聖書教会の共同訳によって読んでゆきますが、11章1節に、ある病人がユダヤに居たと書いてあります。ラザロでマルタ、マリアの兄弟であった。彼を助けてほしいという願いがマルタより、イエスに届いた。このとき主は、「死で終わるものではない」といわれ、そのことは「神の子」が栄光を受けるためだとあります。「死で終わらない」とは大変含みのある言葉です。「死ねばすべて終わりだ」と思っている人には理解できません。その日から幾日か経って、「ラザロはどうしたか」と聞かれた時、人々は死んだと思っていたのに、主イエスは「眠っている」といわれ、ラザロの中には光がもうないからだといわれたのです。そして彼を「起こしに行く」といわれた。人々は眠っているのなら、起こすことが出来ると考えていたのに、イエスは「よみがえらせる」といって、墓に行かれた。実証主義者トマスとの違いを明らかにしています。
ここでマリアを呼ばれた。彼女もほかの人と同じように考えていたが、信じてはいなかった。知性と信仰との違いです。人が生きるにしても、死ぬにしても、それは「神の子」で表されるものであると受け取りましょう。
この日、イエスの涙は「人の子」と「神の子」との間で起きる葛藤です。「人の子」の限界ともいえる事柄です。
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前 奏 - たのしき喜びのうちに - F.W.Zachau
招 詞 詩編 第22編2-3節
賛 美 11(讃美歌54年版) あめつちにまさる
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第117編
分かち合い
賛 美 291(讃美歌54年版) 主にまかせよ
聖 書 ヨハネによる福音書 第11章17-37節(新共同訳新約 189頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「涙された主イエス」 長谷川 温雄 師
祈 祷
賛 美 294(讃美歌54年版) みめぐみゆたけき
献 金
感謝祈祷
賛 美 542(讃美歌54年版) 世をこぞりて
祝 祷 長谷川 温雄 師
後 奏
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