主日礼拝
1月20日 午前10時30分より
メッセージ:「あなたはやり直せる」
聖書:ルカによる福音書15章11-32節
説教者:小野慈美牧師
弟息子は、父の支配から離れすべてを自分で決める自由が欲しいと考え、父の財産を生前分与で受けとり、家を出て行きました。しかし、何もかも失ったとき気づいたのです。父の支配がうるさいと感じていたが、それは支配ではなく愛だったのだ、父の愛の中で生きるところにこそ、本当の自由があるのだということを。「そこで、彼は我に返って・・・、そこをたち、父親のもとに行」(17,20)きました。悔い改めとは、的外れな方向から、本来の方向に向ける方向転換のことです。彼は、父親のもとに向かって歩き始めました。
それに対し父親は「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20)。父の行動は、あらゆる想定を超えた驚くべきものでした。①離れていたのに見つけたのは、父親が、ずっと待ち続けていたからです。②中東の文化では、大人が走ることは実に恥ずべきことでしたが、父は恥も外聞もかなぐり捨てて走り寄り、接吻しました。③王を迎えるほどの歓待をしました(22-23)。
父のやり方は常識的には間違っており、兄が「怒って家に入ろうとは」(28)しなかったのも当然です。兄に代表されるファリサイ人たちの価値観は、神の愛を受けられるかどうかは行いによって決まるというものです。しかし、父の思いは違うのです。私たちも自分を兄の立場において考えがちです。自分はそこそこ「良い子」だと。しかし、私たちもまた、人々から後ろ指を指されるような立場に身を置かれることが無いとは言えません。そうなった場合、神様がこの父のようなお方でなければ、私たちは救われません。
さらに言えば、表面的には後ろ指をさされるようなことはしていないとしても、自分と神様しか知らない隠れた恥が誰にでもあるものです。すなわち、程度の差はあっても、神様の前では、人は皆、弟の立場なのです。神に愛されて当然だと言える人はいないのです。もちろん、弟のやったことを父が肯定しているのではありません。しかし、たとえ「悪い子」であろうと、とにかく死んだも同然と思っていた子が帰ってきた。これこそが何にもまさる喜びなのだ。これがたとえのポイントであり、神様のお心なのです。
主イエスは、たとえで示された神様の愛をご自身の生き方を通して示されました。それが十字架です。わたしたちを赦すために、ご自身が恥(罪)を引き受けられたのです。だから、あなたが弟息子のような立場に陥ったとしても、主イエスは「あなたはやり直せる」と招いてくださるのです。
今週は説教の音声のみとなります
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前 奏 - 喜びなさい、おぉ私の魂よ - J.パッヘルベル
招 詞 イザヤ書 第46章3-4節
賛 美 21-58 み言葉をください
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第130編
賛 美 - こえのかぎり神をたたえよ - ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21-224 われらの神 くすしき主よ
聖 書 ルカによる福音書 第15章11-32節 (新共同訳新約 139頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「あなたはやり直せる」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-451 くすしきみ恵み
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-187(アーメン) よろこびの歌で
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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