主日礼拝(受難節第5主日)・聖餐式
4月7日 午前10時30分より
メッセージ:「赦された犯罪人」
聖書:ルカによる福音書23章26-43節
説教者:小野慈美牧師
人々は、「十字架からおりて奇跡を見せてくれたら信じてやろう」と言わんばかりでした。人間のさまざまな欲望を満たしてくれる神こそが神としてふさわしいと考えるのです。しかし、全く「神らしくない」無力な男が十字架で死ぬというできごとの中に、「人間の罪を負う」という神だけが担うことのできるみわざが隠されていたのです。
通常、十字架にかけられた犯罪人は、肉体的にも精神的にもとても苦しいので、呪いや怒りの言葉しか口にしないそうです。ところが、主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34)と祈られました。この祈りを聞いたとき、犯罪人は、このお方こそメシアだと分かり、惨めな犯罪人として十字架につけられた人物の中に、生ける神を見たのです。
その主イエスは、弟子たちに言われました。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27-28)。これは、非現実的な勧めだと感じられますが、ここにこそ、キリストに従う者の本質があります。
しかし、自分がまじめに正しい生き方をしているという自負がある人ほど、この言葉に従うことは難しいものです。なぜなら、しばしば自分を正しい者の立場に置いて裁判官になってしまうからです。神の前では、自分も裁かれねばならない者、それゆえ、赦されねばならない者であることを忘れてしまうからです。
さらには、正義感が高じると、神をも裁きかねなません。「神が愛なら、どうしてこんなことが起こるのか。どうして神は何もなさらないのか」と。確かに、そのように問いたくなる現実はあります。しかし、それは、「自分自身と我々を救ってみろ」(39)という態度に通じるのです。つまり、自分のイメージに合致した神でなければ神らしくないという考え方です。
私たちも、神の前では、十字架につけられた犯罪人と同じであることに気づくことが必要です。そして悔い改めるならば、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43)と、主イエスとの交わりの中に招き入れられます。そして、その結果の賜物として「敵を愛する」愛が与えられるのです。
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前 奏 - 罪なき小羊 - M.レーガー
招 詞 イザヤ書 第63章7-8節
賛 美 21-298 ああ主は誰がため
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第30編
賛 美 - イエス、イエス - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-296(1,3,4節) いのちのいのちよ
聖 書 ルカによる福音書 第23章1-25節 (新共同訳新約 157頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「史上最大の冤罪」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-304 茨の冠を主にかぶせて
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-28 み栄あれや
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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