主日礼拝(棕櫚の主日)
4月14日 午前10時30分より
メッセージ:「暗闇の中でこそ見える光」
聖書:ルカによる福音書23章44-56節
説教者:小野慈美牧師
ローマ人の百人隊長はそれまで何度も十字架刑に立ち合いました。ですから、「父よ、かれらをお赦しください」という言葉を建前や演技で言えるほど、十字架の刑は生易しくはないことを知っていました。十字架上のイエスの姿に、この世の偉大さとは全く異なる偉大さを感じ取り、「本当にこの人は正しい人だった」(47)と言わずにはおれなかったのです。(マタイ、マルコには、「本当にこの人は神の子だった」と書かれています)。では、なぜ、神の子がこのような苦難を味わわれたのでしょうか。
死の本当の恐ろしさは、神から切り離されてしまうということです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という時の「死」は、神との切断です。それがいかに恐ろしいものかを、主イエスは十字架の上で味わい尽くされました。それまでの神との100パーセントの交わりが完全に断ち切られるという本当の死を死んだのは主イエスだけです。それができるのは、罪なきお方、「神の子」だけなのです。そして、主イエスはこの死を完全に死なれました。「どうせ復活するんだから、しばらくしんぼうしよう」というようなものではなかったのです。完全な死を成し遂げられたから、復活があったのです。
本当の闇を経験し、本当の恐れを経験なさったお方だからこそ、どんな人の苦しみや痛みをも知ってくださり、また助けることがおできになります。全くの暗闇の中で、その苦難を味わいつくして、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と叫ばれた。最後まで、神との交わりが回復することはなかった。それが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)の言葉の意味です。
私たちの人生においても、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたくなることがあるでしょう。私たちが、自分の犯した罪を嘆くとき、絶望的な状況で自暴自棄になってしまうとき、死を目前にした恐れにさいなまれるとき、その闇の中にも、いや、闇の中にこそ、主イエスはおられるのです。まさにそのときに、主イエスは「私は、あなたを捨てない。あなたを捨てないために、私が神から捨てられたのだ」と言われます。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハネ1:5日本聖書協会共同訳)。どんな闇の中でも、あなたと共におられるために、主イエスは十字架につかれたのです。十字架という出来事の中に光があります。
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前 奏 - ダビデの子ホサナ - キッズクワイア・ジュニア聖歌隊
招 詞 ヨハネによる福音書 第1章1-5節(日本聖書協会共同訳)
賛 美 栄光と賛美と誉れ(21-308)会衆は着席のまま「答唱」部分と5節を歌います
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第24編
賛 美 - 棕櫚の葉 - ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21-311(1,4,6節) 血しおしたたる
聖 書 ルカによる福音書 第23章44-56節 (新共同訳新約 159頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「暗闇の中でこそ見える光」 小野 慈美 牧師
祈 祷
任 職 式 教会学校奉仕者
賛 美 21-280 馬槽のなかに
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-24(アーメン) たたえよ、主の民
後 奏
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