2月23日 午前10時30分より
メッセージ:「すがすがしく生きるために」
聖書:ルカによる福音書20章45節-21章4節
説教者:小野慈美牧師
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(Ⅰ)律法学者の偽善(ルカ20:45-47)
彼らは、宗教的な権威を外見的なことでひけらかそうとしました。また人の世話をするときにも、報酬や称賛を期待する利己的なものでした。「見せかけの祈り」とは、自分の信仰深さを人に示そうとする思いだけで祈ることです。主イエスは「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(47)と厳しい言葉を語られました。なぜなら、宗教的な偽善は神をあなどる生き方だからです。
(Ⅱ)やもめの真実(ルカ21:1-4)
やもめが捧げた「レプトン二つ」とは、献金として認められる最小の額だったようで、今なら200円くらいと考えて良いでしょう。主イエスが彼女を称賛なさったのは、なぜでしょう。「生活費を全部」献金した行為を称賛したのだと捉えると本質を見誤ってしまうでしょう。律法学者の偽善との関連で考えれば、献金の行為そのものよりも、行為のもととなっている「心」が問われているのです。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル上16:7)のです。では、やもめの「心」とはどういうものでしょうか。
①他人の評価からの自由:他人の目をいっさい気にしない自由、比較からの自由です。それだけではなく、彼女は自己顕示欲からも自由です。たとえ小額ではあっても、その時の全財産ですから、それを誇ることもできるわけです。私たちも、この種の「ひそかな偽善」に陥ることがあります。人は善を行いながらも罪を犯すのです。しかし、このやもめには、そのような偽善は感じられません。真実の信仰は、神のみを畏れることによる精神の自由をもたらすのです。やもめには人の評価にしばられない、真実を求めるすがすがしさがあります。
②献金は感謝に基づく愛の表現:信仰とは、神学的な内容を知的に承認するだけでなく、神に対する信頼であり、神に愛され神を愛する関係に生きることです。彼女は、悲壮な思いで生活費を全部捧げたのではないはずです。おそらく、神殿を立ち去る彼女は、すがすがしい笑みを浮かべていたと思うのです。
主イエスは、すべての人にやもめと同じことを求めてはおられません。問われるのは愛です。ですから、逆に、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも・・・愛がなければ・・・何の益もない」(Ⅰコリント13:3)のです。献金に大切な心は、感謝に基づく愛です。彼女が「だれよりもたくさん入れた」とは、「誰よりもたくさん感謝し愛した」ということです。献金する時、私たちの心が向いているのは人でしょうか。神様でしょうか。
前 奏 - 世にあるかぎりの - Satkz
招 詞 詩編 第78編1-3節
賛 美 4(1-5節) 世にあるかぎりの
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第119編161-168節(シン)
賛 美 - おどりでる姿で - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 290(1,3,4,5節) おどり出る姿で
聖 書 ルカによる福音書 第20章45-21章4節(新共同訳新約 150頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「すがすがしく生きるために」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 520 真実に清く生きたい
献 金
感謝祈祷
賛 美 神はあなたと共にいる
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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