3月15日 午前10時30分より
メッセージ:「過越の子羊」
聖書:ルカによる福音書22章1節-23節
説教者:小野慈美牧師
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人はなぜ死を恐れるのでしょうか。それは、死後どうなるのかわからないという恐れであり、漠然とではあっても、死後の裁きに対する恐れがあるからではないでしょうか。聖書は、主イエス・キリストの十字架と復活によって、死に対する恐怖は取り除かれたと宣言します。もちろん、それは、確認できることではありません。しかし、そのことを信じることができれば、私たちは、根本的な恐れから解放されるのです。
<過越の食事> ルカ22:1-23には、主イエスの十字架の前夜に、弟子たちと食事をしたときのことが記されています。これは「過越の食事」であり、ユダヤ人にとって、自分たちの先祖がエジプトでの奴隷状態から解放された出来事(出エジプト12章)を記念する大切なものでした。主イエスは、過越の食事のときに、ご自身を過越の小羊になぞらえて、十字架が人間の罪の贖いのためであることを示唆しておられます(ルカ22:19,20)。
<裏切り>「人の子は、定められた通り去っていく。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」(22)という言葉は、ユダは、始めから裏切る役割を演ずるために生まれてきたかのようにも理解できます。しかし、「定められた通り」とは、主イエスの「救いの業を成し遂げる」決意を表しており、ユダが裏切り者として運命づけられていたということではないと思うのです。ですから、「ユダの中に、サタンが入った」(3)とは、「ペテロ(ヨハネ)の中にサタンが入った」となる可能性もあったのです。消極的でしたが、弟子たちは皆裏切りました。主イエスが捕らえられたとき「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ26:56)のです。
<ユダ>なぜ、ユダが裏切りを決意したのかはわかりません。しかし、「ユダの中にサタンが入った」ということは、神の御心を求めるよりも、自分の考えを優先させたということです。この言葉をそのように捉えるならば、「小野慈美の中にサタンが入った」ということも起こりえます。だから、私たちは「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と絶えず真剣に祈るのです。そして、忘れてはならないことは、ユダも、この食事のとき、過越の小羊になぞらえられている主イエスからパンと杯をいただいたということです。つまり、主イエスの十字架はユダのためでもあったのです。
死は未知のものであり、恐れが伴うのは当然です。しかし、その恐るべき死に、私たちは一人で立ち向かうのではない。裁きを恐れて死に向かうのではない。過越の小羊である、主イエスが死のときにも伴ってくださる。だから、逆説的な言い方ですが、私たちは安心して死を恐れることができるのです。
前 奏 - 罪なき子羊 - J.S.バッハ
招 詞 ローマの信徒への手紙 第8章31-32節
賛 美 297(1,3,5節) 栄えの主イェスの
主の祈り
分かち合い
聖 書 ルカによる福音書 第22章1-23節 (新共同訳新約 153頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「過越の子羊」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 531(1,3節) 主イェスこそわが望み
献 金 (※礼拝堂への入退場時にお捧げください)
感謝祈祷
賛 美 28 み栄えあれや
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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