7月16日(日) 10時30分より
メッセージ:「もう泣かなくともよい」
聖書:ルカによる福音書7章11-17節
説教者:浅輪一郎伝道師
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イエス様がお語りになった、「もう泣かなくともよい」というお言葉の意味を振り返ります。
1.イエス様は、私たちを、私たちが囚われている慣習や思い込みから自由にして下さる。
当時、中東の葬儀には泣き女と呼ばれる人達がいて、時には必要以上に悲しみを表現していたと言います。ですからこの葬儀でも、泣き声はあちらこちらで響いていたことでしょう。イエス様は慣習に従って泣きわめく儀式を立ち止まらせたということが考えられます。慣習ばかりではありません。イエス様は、時に人々を苦しめることもある思い込み/社会的通念というものを取り去られたということも考えられます。この母親はやもめでありました。しかし、このような立場にいる人々に対して神様は繰り返し「大切に扱いなさい」と伝えておられていたはずです(出21:21、申14:29)。にも関わらず、「長生きや子宝に恵まれるということが神様からの祝福である」という考え方だけに目がいくようになって、今度は逆に、「早く亡くなるということは、罪に対する罰である」といった偏った考え方でやもめを見るようなこともあったと言われています。母親はこのような世間の目からも苦しめられていたのかもしれません。イエス様は、そのような人を苦しめる慣習や思い込みを念頭に置きながらも、「もう泣かなくともよい」と声を掛けられたのかもしれません。
2.死はイエス様によって滅ぼされる。
15節では「死人は起き上がってものを言い始めた」と記されていましたが、このことはイエス様が死を滅ぼされるということが必ずしも肉体の蘇りだけに留まるということを意味はしていません。もし、復活というものが肉体の蘇りだけで留まるのならば、この息子は、絵本の『100万回生きたねこ』のように、何かの拍子で亡くなっては、その度に生き返らなければなりません。しかしここで示される蘇りというものはイエス様が現れて下さったことによって、「命は質的に変化する」ということを意味しています。イエス様によって新しい命がもたらされるということを、よって死は、もはや悲しみだけに留まるものではないということを意味しています。イエス様は、この後、十字架の道を歩まれます。そして十字架の上で死を迎えらえます。しかしイエス様は復活をされます。そしてそのイエス様が、今度はイエス様と出会わされる人々を同じように、神様との交わりの中に生かされるという永遠の命へと招いて下さる。悲しみの原因であり絶望の対象であった死を、希望の対象へと変えて下さる。イエス様は、ご自身が死を滅ぼしたお方であるからこそ力強く言われるのです。「もう泣かなくともよい」と。アランの『幸福論』に、「悲観主義は気分であり、楽観主義は意志である」という言葉がありますが、この言葉を持ち出すならば、私たちの場合、「楽観主義」というものはイエス様の ご意思 によって私たちにもたらされていると言えます。私たちは、イエス様がお語りになったこの「もう泣かなくともよい」というお言葉の先に、イエス様のご意思を見ます。イエス様の十字架を見ます。イエス様の復活をはっきりと見ます。ですから私たちは、死を前にしてさえも涙を拭うことが出来る、顔を上げて生きて行くことが出来るのです。
3.このお言葉は、全ての人々に届けられている。
13節の原文は、直訳しますとこのようになります。「そして彼女を見ると、主は彼女に、深い憐みを覚えて、そして彼女に言われた。『泣くな。』」
この短い一文の中で、三回も、彼女という言葉が繰り返されています。では、この彼女(母親)とはどのような人であったのかと申しますと、彼女とは、悲しみや苦しみの中に留まるしかなかった人でありました。私たちの場合、後になって聖書を通して、福音という救いを示されますが、この母親の場合は、そのような救いというものさえ知ることもなく、ただ悲しみに打ちひしがれていた人でありました。聖書には、イエス様による数々の癒しの物語が記されていますが、そのほとんどにおいて、癒しを求める人は、自分自身がもしくは周りにいる人がイエス様に対してお願いをしたり、信仰の告白をしたりしています。しかし、ここで語られている母親は、ただただ一人息子の葬儀の中で泣き崩れていただけの人でありました。この母親においては資格だとか行いだとかのみならず信仰というものさえここでは問われていません。しかしイエス様はそのような人にも、いいえそのような人だからこそ、このように声を掛けて下さったのです。「もう泣かなくともよい」と。
そしてこのお言葉は「私たちにも語り掛けられている」ということを私たちは心に留めておきたいと思います。
前 奏 - プレリュード Gdur ― J.H.リンク
招 詞 詩編126編5-6節(下記)
賛 美 讃美歌21-498 道、真理、命
主の祈り
聖 書 ルカによる福音書7章11-17節 (新約p.115)
祈 祷
黙 想
説 教 「もう泣かなくともよい」 浅輪一郎伝道師
祈 祷
賛 美 讃美歌21-474(1,3) わが身の望みは
献 金
感謝祈祷
賛 美 讃美歌21-25 父・子・聖霊に
祝 祷 小野慈美牧師
後 奏
分かち合い
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5涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩126:5-6)
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