11月10日(日)10時30分より
メッセージ:「悲しむ人々は、幸いである」
聖書:マタイによる福音書5章4節
説教者:浅輪一郎伝道師
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「死とは何か?」ということについて思いを巡らすと、最初に考えられる死の捉え方は、日本では「自然な死」/「生物学的な死」というものでありましょう。一方で、聖書が言う死の捉え方、キリスト教が示す死の捉え方では、はっきりとこのように宣べられています。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)つまり、アダムに由来する「神様から禁じられていた木の実を取って食べてしまった」という罪のことであり、その罪によって死がもたらされることになったということです(創世記2:18-3:19)。そうしますと私たちはついアダムに対して嘆き節の一つでも言いたくなるのでしょうが、キリスト教が伝える罪とは、まさに、このような私たちの嘆き節に見え隠れしているものと言えるのかもしれません。つまり、私たちをお創りになった神様の御心に想いを寄せることもなく、自分以外の誰かを責め、「自分は関係ありません」/「自分は全く問題ありません」と思って生きていこうとする私たちの心の有り方をいっているのかもしれません。神様は、神様との正しい関係の中で私たちが生きていくことを望んでおられる。同時に、神様がお創りになった全ての人々との正しい関係の中で私たちが生きていくことも望んでおられる。にもかかわらず、私たちの日々の歩みは正直申し上げると心許ない。罪とは結局私たち一人一人が神様との関わりの中でしっかりと向き合うべきものとなるのでしょう。しかしそれでも私たちがこのキリスト教が伝える罪から目を背けることなく自分のこととして受け止めるということは、とても大切なこととなってきます。何故なら、再びローマ6章23節に目を向けると「罪が支払う報酬」とあるからです。「罪に対する罰」ならば、因果関係としては理解出来ましょうが、「罪が支払う報酬」とあるからです。つまりここで報酬とは、私たちが死と向き合う際には死でさえも神様との関わりの中では罰としてではなく「報酬として受け止められるようになる!」ということを意味しているからです。同じ6章23節でありますが、さらに目を進めますと「わたしたちの主キリスト・イエスによる」とあります。これは、罪なき神の子 /イエス・キリストが私たちの罪を引き受けて下さって、イエス様ご自身の十字架における死を通して贖って下さったということを意味しています。さらには、「永遠の命なのです」ともありますが、これは、イエス様はその後復活を成し遂げられるのですが、そのことを信じる者にも永遠の命をお与えになるということを意味しています。
繰り返しになりますが、私たちが私たちの罪と向き合うということは非常に大切です。何故なら、「自然な死」/「生物学的な死」として受け止めなければならなかった死が、イエス様の「十字架における死」と「復活の出来事」を通しては意味があるものとさえなるからです。つまり、私たち自身の死の悲しみを拭い去ってくれるからばかりではなく、私たちが想いを寄せる既に死の中にあり眠りに付いている私たちの大切なあの人たちに対しても、希望を繋ぐものとなるからです。コリントの信徒への手紙Ⅰにおいては、このように記されています。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(15:20)確かに、アダムによって、私たちは死ぬ事となった。しかしイエス様によっては、すべての人が、文字通りすべての人が死者の復活という希望を与えられている。再び今日の御言葉に目を戻しますと、イエス様は、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と宣べておられます(マタイ5:4)。これは告知です。宣言です。イエス様ご自身の十字架と復活の業に根拠づけられた告知であります。その告知には私たちの側の何らかの条件すらありません。ですからたとえ私たちが、死の悲しみに暮れる時があるとしても、そのイエス様の告知に触れた私たちは、やはり、幸せであり、幸いであるのです。
前 奏 - 大地よ、星々よ - Satkz
招 詞 ヨハネの黙示録21章3-4節(下記)
賛 美 讃美歌21-550 大地よ、星々よ(1,4)
主の祈り
聖 書 マタイによる福音書5章4節 (新約p.6)
祈 祷
黙 想
説 教 「悲しむ人々は、幸いである」 浅輪一郎伝道師
祈 祷
賛 美 讃美歌21-580 新しい天と地を見たとき
献 金
感謝祈祷
賛 美 この歌を聴いてほしい
祝 祷 小野慈美牧師
後 奏
分かち合い
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3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙21:3-4)
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