3月23日(日) 午前10時30分より
主日礼拝(受難節第3主日)
3月23日(日) 午前10時30分より
説 教:「もう泣かなくともよい」
聖 書:ルカによる福音書7章11-17節
説教者:菊池美穂子神学生
主イエスは弟子や大勢の群衆と一緒にナインという町に来ました。そこで、葬式の行列に出会いました。息子を亡くした母親は既に夫に先立たれたやもめでもありました。そして今、息子も失った。人は死ぬと滅びます。死は人を絶望へと追いやるのです。誰一人としてこの死から逃れることはできません。
主イエスはこの母親を見て憐れに思われました。母親が信仰深かったのでもなく、懇願したのでもありません。憐れに思うというのは、お腹の底からの痛み、内臓が痛むということです。単なる同情ではなく、内臓が痛むほど憐れに思われた主は母親に、「もう泣かなくともよい」と言われました。もともとの言葉では「泣くな」ということです。主イエスは母親に泣くなと命令されたのです。死との戦いを前にした主の激しさがあります。
主イエスはラザロが死んだ時、人々が泣いている姿を見て憤られたとあります(ヨハネ11:33)。主は人間を滅びに至らせる死に対して憤られるのです。主イエスは怒りをもって、死と戦われました。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(Tコリント15:54b-55)。主が死と戦って、死はとげを失いました。人はいつか必ず死にます。しかし、とげを失った死は、もはや人を滅ぼすことはできないのです。わたしたちは死んでも滅びない。だから平安のうちに死ぬことができるのです。
主イエスは死んだ息子を生き返らせて、母親にお返しになりました。もし再び母親が息子に先立たれるようなことがあったとしても、泣くことはなかったと思うのです。神には死んだ人を生き返らすことができる。そのことを身をもって知ったからです。主イエスを信じる人は、終わりの時に甦りの命を与えられるという確かな希望をもって生きることができるのです。
※礼拝視聴にはパスワードが必要となります。お申し込みは こちら
画面内のフルスクリーンをクリックすると全画面になります。escキーで元に戻ります↑
Tweet
前 奏 − 神の時こそ、いと良き時 − J.S.バッハ
招 詞 コリントの信徒への手紙T 第15章54b−55節
賛 美 21−309
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第98編
賛 美 21−127
分かち合い
賛 美 − キリスト十字架にかけられた − 聖 歌 隊
聖 書 ルカによる福音書 第7章11−17節 (新共同訳新約 115頁)
祈 祷
黙 想 − イエス十字架につけられたまいし時 − J.S.バッハ
説 教 「もう泣かなくともよい」 菊池 美穂子 神学生
祈 祷
賛 美 21−358
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−25
祝 祷 小野 慈美 師
後 奏
〒221-0804
神奈川県横浜市神奈川区栗田谷42-43
TEL 045-323-2967
FAX 045-323-3979