4月6日(日) 午前10時30分より
主日礼拝(受難節第5主日)
説 教:「自分を救えない神」
聖 書:マルコによる福音書15章21-32節
説教者:小野慈美師
※教会学校はありません。
「他人は救ったのに、自分は救えない。・・今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」(31-32)と人々は十字架の下で、あざけりました。昔も今も、人は、自分に都合のよい「奇跡」を起こしてくれる神を信じます。十字架では表面的には何の奇跡も起こりませんでした。しかし、この少しも“神らしくない”男の十字架の死の中に本質的な神のみわざが隠されていました。その意味を知った人物が登場します。
キレネ人シモンは、たまたま、そこを通りかかり、むりやり十字架を背負わされました。そして、茨の冠をかぶった見知らぬ犯罪人の男を恨んだに違いありません。しかし、彼はゴルゴタの丘に着いたとき、そこを立ち去り難く、十字架を最後まで見届けました。そして気づいたのです。「そうか、この人は自分を救うことができないのだ。十字架をおりて、自分を救ったら、『父よ、彼らをお赦しください』(ルカ23:34)という祈りが無になってしまう。この人は、人間を救うために、自分を救えないのだ。」
このシモンがその後どのような人生を歩んだかのヒントがローマ16:13に残されています。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス」とありますが、このルフォスの父がマルコ15:21の「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」であると考えられます。彼は、後に教会の中心人物となったのです。
わたしたちの人生にも、自分にとって都合の良い「奇跡」がいつも起こるわけではなく、むしろ、思いがけなく十字架を負わされることがあります。確かに、十字架はうれしいことではありません。しかし、それはバチなのではなく、わたしたちをキリストに結び付ける恵みとして与えられていることもあるのです。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、
キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)
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前 奏 − おお人よ汝の罪の大いなるを嘆け − J.S.バッハ
招 詞 イザヤ書 第55章6−7節
賛 美 21−305
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第116編
賛 美 21−304
分かち合い
賛 美 − 深き淵より − 聖 歌 隊
聖 書 マルコによる福音書 第15章21−32節 (新共同訳新約 95頁)
祈 祷
黙 想 − 茨の冠を主にかぶせて − Satkz
説 教 「自分を救えない神」 小野 慈美 師
祈 祷
賛 美 21−306(1−4節)
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 21−79
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21−517(アーメンをつける)
祝 祷 小野 慈美 師
後 奏
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