主日礼拝
1月18日(日) 午前10時30分より
説 教:「赦しによる解放」
聖 書:創世記50章15-26節
説教者:小野慈美牧師
父ヤコブが死んだとき、父親というヨセフの上に立つ権威が亡くなったことによって、兄弟たちの心に恐れが生じました。兄達は「人を介して」(50:16)、ヨセフに、ヤコブの言葉として、兄たちを赦してくれるようにとの願いを伝えました。ヨセフが仕返しをするのではないかとひどく恐れたのです。それに対して、ヨセフは「恐れることはありません」と答え、神の救いを語ります。あなたがたは確かに私に悪を企てた。しかし、神は悪をさえ救いのみわざに取り込んでしまわれた。だから「わたしが神に代わることができましょうか」。この赦しは、ヨセフをも兄たちをも解放しました。
@ヨセフ自身の解放:「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(エフェソ4:26)とあるように、怒ることそのものが悪いのではありません。義憤という言葉があるように、怒らねばならないこともあります。しかし、怒りを復讐心に変質させ、その思いをいだき続けることが問題なのです。神様は、憎む権利、恨む権利を認めてくださっているとさえ言うことができます。ただし、その権利を、私的な復讐として実行するのではなく、神様にお預けする。それが「赦し」です。「ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語り掛け」(21節)ました。本当の強さは優しさです。優しさはひ弱さでも甘さでもない。神の前で、自分の力を誇示することがいかに無意味であり、愚かであるかを知った人間が持つ謙虚さとおもいやりの態度です。赦すことによってヨセフ自身が自分の過去の傷(恨み、憎しみ)から解放されたのです。
A兄たちの解放:彼らは、ヨセフを売ったことの罪責の念を通奏低音のように心に重くかかえていました。しかしヨセフの赦しはあたかも神様の赦しの宣言のごとく兄たちには響いたことでしょう。
わたしたちも後悔の念が心を鷲づかみにして離さないことがあります。そのとき、神の言葉が響きます。「恐れるな。わたしの赦しの宣言は、何にも優っているのだ。」わたしたちが、人を裁きたくなるのは、自分の過ちや不完全さに苦しんでいるからです。しかし、もう苦しまなくてもよい。今まで苦しんできたのなら、きょうで終わりにしよう。神が赦しておられる。ほっとしてよい。だから、他の人を裁く必要もなくなる。あなたは愛され赦されている。このことを信じるのが信仰です。
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前 奏 − ふるき年はゆきぬ − J.G.Walter
招 詞 詩編 第139編23−24節
賛 美 21−367
主の祈り)
交 読 文 交読詩編 第101編
賛 美 21−494
分かち合い
賛 美 − 主のまこととめぐみは − ジュニア聖歌隊
聖 書 創世記 第50章15−26節 (新共同訳旧約 92頁)
祈 祷
黙 想 − 祈り − 鷲見五郎
説 教 「赦しによる解放」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21−532
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−88(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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