主日礼拝
1月25日(日) 午前10時30分より
説 教:「見よ 新しくなった」
聖 書:コリントの信徒への手紙II 5章16-21節
説教者:長谷川温雄師
ペテロが「パウロの手紙は難しく、理解しがたいところがある」といいます。確かにその通りだと思いますが、彼の日常生活が分れば、かなり解消されるのでないかという気がします。
その謎解きとして、彼がどういう手段でキリストを知るようになったかを問いただしてみました。福音書の使徒たちは、ガリラヤ生まれで、主の十字架の死の下にいました。いわゆる史的イエスを通して、キリストによる「救い」を受け入れたことで、その理解が始まったのです。しかしパウロは、その出来事を先輩の使徒たちから聞いて受け入れました(使徒言行録を参照)。彼が直接に体験した事実といえば、あのダマスコでの「光の体験」であったと思うのです。それが「霊のイエス」に出会って、「救い」を受け入れたことの始まりです。そのことが、彼のいわゆる神学の出発点となりました。もし彼が、ガリラヤ生まれで、主イエスに従ってゴルゴタの丘にいたならば、その後のパウロはかなり違っていたという気がします。
彼の教説の一つである「和解の福音」の理解は、16節にある「わたしたちは、肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません(16)」という言葉に尽きます。「キリストと結ばれる人は、新しく創造された者(17)」というのは、霊によるキリストを受け入れることに始まり、神の側からのキリストによる十字架の和解の道に私たちを導くのです。和解とは「神はキリストによって世をご自分と、<仲直りさせ>人々の罪の<責任>を問わない」ということです。これは「肉に従って--(16)」の理解の道ではない、「霊であるキリストに従う道」--「新しい道」だと、パウロは言っているのです。
福音書の理解だけだとここに行き着くのは難しいと思います(福音書には神との和解という言葉はない)。復活のイエス--霊なるイエスの仲介によって、神の側から、和解の申し出がなされたと理解するのです。これが聖化に連なる。
主イエスはわたしたちの側のとりなしの犠牲ではなく、神の側から与えられた和解の賜物であると理解するように勧めています。
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前 奏 − 主イエス・キリストよ、われらを顧みて − バッハ
招 詞 詩編 第1編1−3節
賛 美 411(讃美歌54年版 以下同様)
主の祈り
交 読 文 18(詩67篇)
賛 美 413
分かち合い
賛 美 − 高き山の上 − 聖 歌 隊
聖 書 コリントの信徒への手紙U 第5章16−21節 (新共同訳新約 331頁)
祈 祷
黙 想 − わが愛する神よ」− D.ブクステフーデ
説 教 「見よ 新しくなった」 長谷川 温雄 師
祈 祷
賛 美 352
献 金
感謝祈祷
賛 美 540
祝 祷 長谷川 温雄 師
後 奏
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