主日礼拝
2月8日(日) 午前10時30分より
説 教:「主の過越」
聖 書:出エジプト記12章21-32節
説教者:小野慈美牧師
モーセはエジプトの王ファラオにイスラエルの民を解放するようにと訴えます。しかしファラオが応じなかったので、神はエジプトに次々と災いを与え、ついに最後の災いをもたらすことになりました。神の使いがエジプト中を巡り歩いた結果、ファラオの家も含め、各家庭のすべての初子が死にました。イスラエルの民は、事前に指示を与えられ、小羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗りました。主の使いは血が塗られていた家の前を過ぎ越しため、イスラエルの家には禍が及びませんでした。そこでようやくファラオはイスラエルの民がエジプトを出ていくのを認めたのです。
初代教会は、過越の小羊の血と主イエスの十字架の血とを結び付けて、十字架は人間の罪に対する裁きを過ぎ越してくださるための過越の小羊だったのだと理解しました。特に、ヨハネ福音書は、終始主イエスを過越の小羊として描いています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)。また、出エ12:46には「羊は、・・・その骨を折ってはならない」とありますが、ヨハネ福音書には「(兵士たちが)イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。・・・これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」(ヨハネ19:33,36)とあります。これは、主イエスの死が過越の小羊の死であったという信仰の表明です。
都合の悪い存在を排除する思い、自分のほうが正しいというおごり、この自己中心性こそが聖書の語る罪です。ベツレヘムの幼児を殺したヘロデ王、主イエスを殺したユダヤ教の指導者たち、それに同調した群衆と同じ罪がわたしたちの内にもあります。そうであれば、わたしたちも「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中にいるのです。しかし、主イエスは十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)。この祈りは他ならぬわたしたちのためでもありました。主イエスの血が、わたしたちの罪を赦すために流されました。
イスラエルの民が過越によって命が救われエジプトの奴隷状態から解放されたように、わたしたちも小羊なる主イエスの十字架によって罪赦された者とされ、罪から解放されたのです。
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前 奏 − 苦しみ悩みの − J.S.Bach
招 詞 詩編 第46編2節、12節
賛 美 21−83
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第103編1−13節
賛 美 21−285
分かち合い
賛 美 − 主の息から漏れるものは何もない − 聖 歌 隊
聖 書 出エジプト記 第12章21−32節 (新共同訳旧約 112頁)
祈 祷
黙 想 − 主よ、わが助けよ − C.S.Lang
説 教 「主の過越」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21−441
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−25
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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