主日礼拝
11月15日(日) 午前10時30分より
説 教:「何をためらっているのです」
聖 書:使徒言行録 22章6-21節
説教者:小野慈美牧師
聖書の「愛」(アガペー)は、好き嫌いに関わらず、相手の存在そのものを大事にする態度です。つまり、自分に都合が良いから大事にするのではなく、自分にとっての都合とは関係なく、相手の存在そのものを大切にする態度です。神の愛はそのような無条件の愛です。
使徒パウロ(サウル)もこの愛に出会って造りかえられた一人でした。パウロは、キリスト教徒を迫害しようとダマスコに向かう途上で、主イエスに出会いました。
「突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました」(22:7-8)。まさに敵対していたそのときに、主イエスの方から出会ってくださったのです。主イエスは良い子のところに来られるのではなく、深い求めを抱いている者にご自身を顕わしてくださるのです。
祈りの最後に「イエス・キリストのお名前によって」と言うのはおまじないではありません。名刺は、そこに書かれている名前の文字ではなく、その名前の持ち主が誰であるかということで意味を持ちます。架空の人物の名刺であれば、名刺は意味を持ちません。それと同じように「イエス・キリストの名」は、その名を持つお方ご自身を指しています。このお方は、かつて地上に生きておられ、今はよみがえりの主として生きていてくださるお方です。わたしたちは例外なく、このお方との交わりに招かれています。ですから「イエス・キリストの名」によって祈るとき、その祈りはひとりごとのつぶやきではなくなります。神は人類一般を愛するのではなく、あなたをかけがえのない固有の存在としてお創りくださり、あなたという存在に心をかけていてくださり、あなたの人生に伴ってくださいます。「わたしはイエスである」との愛の呼びかけが聞こえないでしょうか。「何をためらっているのです。立ち上がりなさい。」遠慮せずに、イエス・キリストの名によって大胆に祈りましょう。
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前 奏 − 聖なるみ神は − J.G.ヴァルター
招 詞 詩編 第100編1−3節
賛 美 21−208
主の祈り)
交 読 文 交読詩編 第30編
賛 美 21−123
七五三祝福式
分かち合い
賛 美 − 希望 − ジュニア聖歌隊
聖 書 使徒言行録 第22章6−21節 (新共同訳新約 258頁)
祈 祷
黙 想 − 神によりたのむ者は − J.C.バッハ
説 教 「何をためらっているのです」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21−456
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−25(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
七五三祝福式
七五三の対象年齢を迎えるの子どもたちの健やかな成長を祈りつつ、教会として祈りの時を持ちました。20名の子ども達が祝福にあずかりました。
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