主日礼拝・聖餐式
3月6日(日) 午前10時30分より
説 教:「神のもとへ導くために」
聖 書:ペトロへの手紙I 3章13-22節
説教者:小野慈美牧師
3:19に不思議な言葉があります。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」。旧約の時代には、人間は死ぬと地下の「陰府(よみ)」という場所にくだると考えられていました。イエス・キリストは十字架で「死に渡された」(18)後に、死んだ者たちのところへ行って宣教をなさったというのです。これはわたしたちにとって何を意味するのでしょうか。
わたしたちも、陰府すなわち神との交わりから断絶されたような状況に置かれることがあります。つまり神様が自分のそばにいてくださるとは信じられなくなることがあるものです。しかし、実は、神はその陰府に来てくださる。わたしたちが神様のところに登っていかなければ神様にお会いできない、神様に受け入れていただけないというのではなくて、神様のほうから陰府に下ってきてくださった。それがイエス・キリストというお方です。「あなたがたを神のもとへ導くためです」(18)。
死ぬほど辛いと思える陰府。こんな自分は生きていてもしょうがないと思える陰府。こんな屈辱を味わうくらいなら死んだほうがましだと思える陰府。わたしたちの人生には陰府と思える状況がある。あるいはわたしたちの心の片隅に陰府をかかえているかもしれない。「こんなところに神様がおられるものか」、「こんなところに神様は来てくださるはずがない」と感じるまさにそのような陰府に来て下さるために、主イエスは十字架で死に、葬られました。きょうのみ言葉は、主イエスの愛の及ばないところはないことを告げています。陰府もまた主が共におられるところとなるのです。
十字架につけられた強盗に主は言われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ24:43)。単に、「死んだら天国に連れて行ってあげるよ」という意味なのではなく、今わたしと共にいるということがすでに楽園(パラダイス)なのだと主は言われます。生においても死においても、主イエス・キリストに在っては、いかなる瞬間も「永遠の今」です。甦えられた主が共におられることを知るときに、真っ暗な陰府にも差し込んでくる光が見えるのです。
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前 奏 − 血しおしたたる − C.H.リンク
招 詞 コリントの信徒への手紙U 第1章4−5節
賛 美 21−393
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第20編
賛 美 21−294
分かち合い
賛 美 − ひとり子を賜うほどに − 聖 歌 隊
聖 書 ペトロの手紙T 第3章13−22節 (新共同訳新約 432頁)
祈 祷
黙 想 − イエスが十字架につけられたとき − J.パッヘルベル
説 教 「神のもとへ導くために」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21−300
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21−92(1,3節)(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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