主日礼拝(棕櫚の主日)
3月20日(日) 午前10時30分より
説 教:「信仰に踏みとどまる」
聖 書:ペトロへの手紙I 5章1-13節
説教者:小野慈美牧師
悪魔(8)の目的は、神への信仰を壊したり、妨げたりすることです。ですから、信仰に踏みとどまる(9)ことを妨げる二種類の「躓き」から守られるためには、正しい信仰理解が必要です。
1)神への躓き 信仰を持つことの見返りとして神が自分に都合の良いようにしてくださる。このように信仰を理解していると、神に躓きます。もちろん、神に信頼して生きることは深い意味で幸いなことです。しかし、その幸いは、必ずしも表面的なことがうまく運ぶということではないのだということです。苦難は、わたしたちを神に近づける機会として用いられることさえあるのです(10)。
2)人への躓き ひどいことを言われた、傷つけられたという感情を味わったときにも「躓き」という言葉を使います。ですから「皆互いに謙遜を身に着け5)」ることが大切です。語る内容が正しくても表現の仕方に愛が欠けているならば正しくありません。「わたしの言ったことのどこが間違っているのか」と独りよがりの正しさをふりかざす、つまり「権威を振り回」(3)してはならないのです。
しかし、躓くということは、いつでも躓かせる側の問題でしょうか。場合によっては、相手が自分の期待通りに動いてくれない、自分が願ったような配慮をしてくれない、つまり自分の思い通りにならないという怒りやいらだちを「躓き」という言葉に転嫁していることもあるのではないでしょうか。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです(7)」。躓きという思い煩いは、神をも他人をも思い通りにしようとすることから生まれる。しかし、神が自分を心にかけてくださるという誇りがあれば、信仰に踏みとどまることができます。
わたしたちの自己中心的な躓きは、期待に応えてくれないから「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人々の心に通じます。主イエスは十字架上で「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神は主イエスを見捨てられたのです。それは、わたしをあなたを見捨てないためでした。
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前 奏 − ひとよ、汝が罪の大いなるを嘆け − パッヘルベル
招 詞 コリントの信徒への手紙U 第12章10節
賛 美 − ダビデの子、ホサナ − キッズクワイア・ジュニア聖歌隊
− 栄光と賛美と誉れ −
賛 美 21−301
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第32編
賛 美 21−294
分かち合い
聖 書 ペトロの手紙T 第5章1−13節 (新共同訳新約 434頁)
祈 祷
黙 想 − メディテーション − Satkz
説 教 「信仰に踏みとどまる」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21−303
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−92(1,3節)(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
エルサレムに入場する主イエスの凱旋を喜び、民衆が棕櫚の枝を取って出迎えたところから、棕櫚の主日または枝の主日と言います。
棕櫚の葉を手にキッズクワイアが入場しました。
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