主日礼拝
4月10日(日) 午前10時30分より
説 教:「いちばん偉い者」
聖 書:マルコによる福音書9章33-37節
説教者:小野慈美牧師
主イエスは、旅の途中で、ご自分がやがて「人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と弟子たちに言われましたが、「弟子たちはこの言葉が分か」りませんでした(31-32)。彼らは、主イエスがやがてダビデ王国を再興し、自分たちもその王国の支配階級になることを願っていたようです。そこで「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(34)のです。
旅を終えて家の中にはいったとき、主イエスは「途中で何を議論していたのか」(33)と言われました。もちろん主イエスは彼らが何を論じていたのかはご存知でしたし、偉くなりたいという思いをあえて否定なさいませんでした。ただし、「偉さ」の意味を変えられたのです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35)と。そして、そのことの意味を示すために、一人の子供を抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(37)。
当時のユダヤ社会では、子供と女性は一人前の社会の成員とはみなされていませんでした。しかし、主イエスは、子供を受け入れることを弟子たちに求められました。それは、子供だけでなく、立場の弱い者、この世では小さくされている者、自分にとって得にならないような相手をも、神に創られた一人の人間として大切にするということです。イエスの弟子として生きることは、この世的な評価、栄誉、成功を第一に求める生き方とは全く異なるものです。
主イエスは、いと小さきわたしたちをすでに価値ある尊いものとして受け入れてくださっています。つまり、すでに偉くされているのですからこの世的な意味で偉くなろうとする必要はないのです。だから、自分を評価してくれる否か、得になるか否かにかかわらず、「いと小さき者」をわたしたちも大切にします。その人に仕えても何の見返りもないかのように思える相手に対しても、その存在の価値を大切に思うがゆえに心こめて仕えていくことこそが、十字架のイエスに従う生き方なのです。
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前 奏 − キリストはよみがえり給えり − バッハ
招 詞 箴言 第16章2−3節
賛 美 21−320
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第145編
賛 美 − ハレルヤ、ハレルヤ(息子よ、娘よ) − 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21−321
聖 書 マルコによる福音書 第9章33−37節 (新共同訳新約 79頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「いちばん偉い者」 小野 慈美 牧師
祈 祷
任 職 式 教会教育奉仕者
賛 美 21−343
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−25
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
日本バプテスト神学校より挨拶
礼拝内で教会学校教育奉仕者任職式がありました。
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