主日礼拝
4月17日(日) 午前10時30分より
説 教:「平和と祝福の担い手として」
聖 書:ルカによる福音書24章36-53節
説教者:小野慈美牧師
主イエスの復活は、弟子たちにとってはきわめてリアルなことでした。それは三次元の世界を越えたリアルさであったために、どんな言葉で表現しても(「手と足をお見せになった」という言葉でも)表現しつくせないものでした。その主が弟子たちに最後に与えられたのが「平和」と「祝福」でした。
@「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)
この平和は、単なる平穏無事ということではありません。そうだとしたら、平和は状況の変化に動かされてしまいます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)とあるように、主の平和は「世が与えるように与えるのではない」のです。この平和は、何よりも十字架による罪の赦しです。罪赦された者として神の前に恐れなく立つことができるという平和です。そして罪人であるわたしを赦してくださった主が甦ってどんな状況においても共におられることを信じる平和です。
A「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24:50-51)。
「祝福」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「良い」と「言葉」が結びついたことばです。主は弟子たちに良い言葉を語られました。つまり弟子たちを良しと言ってくださり、この世界に遣わしてくださいました。わたしたちもまた、良い言葉を語る者として遣わされるのです。わたしたちも、人々に「主があなたの罪を赦してくださった。主がどんなときにもあなたと共におられる。あなたは神に赦され、愛されています」という「福音」(良い知らせ)「良い言葉」を宣べ伝えていくのです。
その後、弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえてい」(52-53)ました。「ほめたたえる(賛美する)」と訳されているギリシャ語は、「祝福する」と訳されている言葉と同じです。つまり、賛美とは神に対して良い言葉を語る、感謝をささげる、神の愛をたたえることです。教会とはまさに、賛美するところです。神と人に対し、良い言葉を語るところです。そのとき、主の平和と祝福がわたしたちを包んでいることを覚えることができるのです。
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前 奏 − イエスは わがのぞみ − J.S.バッハ
招 詞 詩編 第33編1−3節
賛 美 21−83
主の祈り (週報の最終頁をご参照ください)
交 読 文 交読詩編 第118編1−9節
賛 美 − 愛する主イエスに − ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21−321
聖 書 ルカによる福音書 第24章36−53節 (新共同訳新約 161頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「平和と祝福の担い手として」 小野 慈美 牧師
祈 祷
任 職 式 教会音楽奉仕者
賛 美 21−517
献 金
感謝祈祷
賛 美 21−25
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
礼拝内で教会音楽奉仕者任職式がありました。
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