主日礼拝・聖餐式
9月4日(日) 午前10時30分より
説 教:「見えるようになるために」
聖 書:ヨハネによる福音書9章35-41節
説教者:小野慈美牧師
生まれつき目が見えないのは、「バチがあたったから」だという考え方が根強かった。しかし、主イエスは、この人にも「神の業」が現れるため、神の愛が現れるためだと宣言し、彼の目を奇跡的に癒されました。この盲人にとっては目が見えるようになったことは奇跡であり大きな喜びでした。しかし、それにも増して、主イエスが安息日であったにもかかわらず自分に心をかけて癒してくださったことに驚き、感謝を覚えたに違いありません。それに対して、ファリサイ人は、生まれつきの盲人が見えるようになったという主イエスの業に出会いながら、それを受け入れようとしない。彼らは、主イエスが安息日規定を破ったということのほうを問題視したからです。
イエスは彼らに言われました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(9:41)。ここでの「罪」とは、悪事ではなく、自分の正しさに固執すること、自己中心性です。真理よりも「自分の正しさ」を貫こうとし、自分の考えに合わない目の前の事実を受け入れることができないのです。このように“人間関係を壊すのは悪い人ではなく、正しい人(自分だけが見えていると言う人)です。”
生まれつきの盲人は、いわば呪われた存在とみなされ、自分でもそのように思わされていました。しかし、イエスは安息日規定を破ってまで、つまり身の危険を冒してまで、目に触れて癒して下さった。彼は見えるようになった目で主イエスの姿を見ると同時に、霊の目で「神の業」を見たのです。
聖餐は「見えない恵み」の「見えるしるし」です。わたしたちはパンと杯が十字架で裂かれた主のおからだ、十字架で流された血潮であると信じています。「見える」ということはそういうことです。さらに言うならば、「見える」ということは、その十字架がだれか罪深いあの人のためではなく、わたしの罪のためであるということを本当に信じるということです。そして、そのことがわかると、わたしたちは気軽に人を裁くことはできなくなります。なぜなら、だれかを裁いている自分自身こそが、まず赦されねばならない者だからです。
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前 奏 - 主よ 憐れみたまえ - バッハ
招 詞 詩編 第67編2-4節
賛 美 21-6
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第64編
賛 美 - イエスは委ねられる - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-564
聖 書 ヨハネによる福音書 第9章35-41節 (新共同訳新約 186頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「見えるようになるために」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-445
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 21-78(1,2,4節)
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21-167(1,3節,頌栄)(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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