主日礼拝
9月18日(日) 午前10時30分より
説 教:「涙を流す神」
聖 書:ヨハネによる福音書11章20-44節
説教者:小野慈美牧師
ヨハネ11章は、マルタとマリアの兄弟ラザロのよみがえりのできごとです。マルタとマリアは「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3)と使いを出しました。しかし、主イエスが到着したときには、ラザロは既に死んで4日が過ぎていました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21)と言うマルタに対し、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(25)と答えられ、ラザロを生き返らせました。
しかし、この言葉は主イエスを信じるならば死を免れるということではありません。このラザロもやがては死に、もはや生き返りませんでした。したがって、この言葉は死を超えて主イエスが共にいてくださるという約束です。その約束を信じられる根拠が、「イエスは涙を流された」(35)という短い言葉に表されています。わたしたちの信じる神は、人間の痛みを共有してくださり、ラザロのために涙を流してくださった神です。その愛の主が復活して今も生きておられます。この涙によって示された愛は永遠に消え去ることはないのです。
人は、苦難の中に置かれるとき神から見捨てられたような孤独を感じます。しかし、「イエスは涙を流された」という言葉には、そのような時にこそ、主イエスが共におられ、寄り添い泣いてくださるのだということが示されています。わたしたちが不条理としか言いようのないことを経験する時、主イエスこそが、この世で最も大きな不条理である十字架を味わわれた方であることを忘れてはなりません。「この日から彼ら(ユダヤ人指導者)はイエスを殺そうとたくらんだ」(53)とあるように、この出来事が主イエスの十字架を決定的にしました。主はラザロの命と引き換えにご自身の命をささげられたとも言えるのです。主の愛は思想ではなく、出来事として起こったのです。キリスト者とは、結局見える現実がどうであれ、愛の神が我らと共におられるということを愚直なまでに信じる者なのです。
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前 奏 - 力の主をほめたたえまつれ - J.G.ワルター
招 詞 詩編 第103編11-13節
賛 美 21-363
主の祈り (週報の最終頁をご参照ください)
交 読 文 交読詩編 第146編
賛 美 - 未来に向かって歩きだそう - ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21-564
聖 書 ヨハネによる福音書 第11章20-44節 (新共同訳新約 189頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「涙を流す神」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-280
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-167(1,3節,頌栄)(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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