アドベント第2主日礼拝
12月4日(日) 午前10時30分より
説 教:「クリスマスを迎える心」
聖 書:ルカによる福音書1章26-38節
説教者:小野慈美牧師
マリアは神の子を宿すという特別な役割を与えられた女性ですが、その役割に相応しい特別な人間だとは考えていませんでした。だから選ばれたのです。マリアの心はいかなるものだったのでしょう。
(1)卑屈ではない「謙虚」。 「はしため」(38)は「奴隷」とも訳せます。しかし自己卑下しているわけではありません。神の前では何者でもない。しかし神が用いようとなさるのなら、神のご意志であるから、自分がそれにふさわしいかどうかとこだわるのもおかしい。謙虚に「お言葉どおり、この身になりますように」(38)と言うだけ。人は自分が何者かだと思っていると、正当に扱われないと感じて、ひがんだり、ねたんだりする。自分が何者でもないことを知っていると、ねたみや恨みから解放される。他方、何かを為したからといって、吹聴することもない。あくまでも主人は神だからです。
(2)高慢ではない「誇り」。 「この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48)。人格を認められない奴隷なのではなく、主が心をかけて下さっている「主のはしため」。自分は、神の前ではなんら誇るものはないが、神がわたしを愛する対象として心にかけて下さっている。これほど大きな誇るべき身分はない。人が他人の批判をしたくなるのは、この誇りを持てないからです。人を批判することによって、自分を少しでもましな人間だと思いたがるのです。
(3)うぬぼれではない「自信」(自己肯定感)。 マリアは「恵まれた方」(28)、「祝福された方」(42)、「幸いな者」(48)と言われています。しかし、その人生は一般的な意味で幸いであったとは言えません。夫ヨセフは早死にしたようですし、わが子が十字架で死ぬ姿を見なければなりませんでした。しかし、神に従うことがこの世的に不利益な道に見えても、結局その道を生きることが幸いなことに違いないのだ。この自信(自己肯定感)はうぬぼれとは違います。愛の神への全幅の信頼から来る自己肯定感です。この意味での自信がないとき、人は外面的なもので自分を大きく見せようとするのです。
アドベントに私たちが為すべきことは神に向かい会うことです。そのとき、高慢が砕かれ謙虚にされます。神からの誇りが与えられ、自信が与えられます。マリアの心をわたしたちも共にしましょう。
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前 奏 - いま来たりませ - W.F.ツァハウ
招 詞 イザヤ書 第2章4-5節
賛 美 21-235
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第96編
賛 美 - 天のかなたから - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-246(1,2,3節)
聖 書 ルカによる福音書 第1章26-38節 (新共同訳新約 100頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「クリスマスを迎える心」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-256(1,3,5節)
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 21-80
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21-83(アーメン)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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