主日礼拝(召天者記念)
10月15日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「もう泣かなくてもよい」
聖 書:ルカによる福音書7章11-17節
説教者:小野慈美牧師
きょうの箇所は、主イエスがやもめの一人息子を生き返らせたという奇跡の出来事です。この当時、やもめが生きていくことはとても困難なことでした。頼みの綱である息子の死は非常な悲しみでした。
ひつぎが町の門から運び出されるときに、町に入ろうとしておられた主イエスの一行と出会います。
1)「憐れに思い」
棺とは、四角い箱ではなく、おそらく編んだ籠状のもので遺体が外側から見えていたと思われます。主イエスは、母親が遺体に寄り縋って嘆いている姿を見て、すべてを察し、「憐れに思」われました。「憐れに思い」と訳されているギリシャ語の元の言葉は“スプランクニゾマイ”で、「内臓が痛む」、「はらわたが痛む」という意味です。つまり自分の体が痛むほど、相手の痛みに共感することです。主イエスは、このやもめの痛み悲しみをご自分の痛みのごとく共感されたのです。
2)「もう泣かなくともよい」(原語は「泣くな」と訳せます。)
「わたしを信じるものは死んでも生きる」(ヨハネ11:25)との主イエスの言葉は、死者の肉体が生き返るという約束ではなく、主イエスは死をさえ支配なさるお方だということです。肉体が生きていても死んでも、主イエスが共におられるということ、それが永遠の命です。死がいっさいの終わりであれば、何の希望も慰めもありません。しかし、復活の命を信じるとき、死は終わりではなくなります。だから、「もう泣かなくともよい」と言われるのです。わたしがここにいるのだから、死が終わりであるかのように、絶望して泣くことはいらない。復活の希望がある。主イエスが「泣くな」と言われるとき、それは「しっかりしなさい」「諦めなさい」という叱責ではなく、永遠の命の希望への励ましなのです。
わたしたちが愛する者と死別するとき、悲しむのは当然です。主イエスもその悲しみを共感してくださいます。「憐れに思」ってくださるのです。しかし、その上で、主イエスは言われます。「泣くな」と。
あなたの愛する者は、死によって取り去られたのではない。死がすべての終わりであるかのような絶望の涙を流す必要はない。生においても死においてもわたしは共にいる。
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前 奏 - 天にまします我らの父よ - F.W.ツァハオ
招 詞 ヘブライ人への手紙 第12章1-2節
賛 美 21-155 山べにむかいて
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第26編
賛 美 - 心が求めている - ジュニア聖歌隊
召天者記念式
分かち合い
賛 美 21-377 神はわが砦
聖 書 ルカによる福音書 第7章11節-17節 (新共同訳新約 115頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「もう泣かなくてもよい」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-385 花彩る春を
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-50(アーメン) みことばもて主よ
祝 祷
この1年間に4名の方が天に召されました。
合計136名の信仰の先達お一人お一人のお名前を読み上げて、その歩みを思い起こしながら、祈りを捧げました。
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