主日礼拝・聖餐式
2月4日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「強いられた恩寵」
聖 書:ルカによる福音書 9章21節-27節
説教者:小野慈美牧師
主イエスはメシアであることの意味を以下の言葉で示されました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22)。
「あなたはメシア(キリスト)です」と告白することは、このメシアに従っていくことを決断することなのだ。その上で、わたしについて来たい者は、すなわち弟子になりたいならば、と続けられました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(23)。
(1)自分を捨てるとは、自分を高くしようとすることをやめることです。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」(フィリピ2:3)。ここには自分を捨てることがどういうことなのかが語られています。他者に対して仕えているようであっても、それを自己目的のためにすることがある。表向きは神のためだと言っていても、虚栄心、自己顕示欲が動機となっていることがある。さらに言えば、私たちは、自分が捨てたものの大きさを吹聴したくなる。宣伝しないまでも、内心、「自分はこれだけのものを捨てたんだ」という「ひそかな高慢」を持っていることがあるのです。
(2)「自分の十字架を背負う」とは、自分の十字架を冷静に受け止めることです。自分の生きる場で、神様から託された課題を真実に担っていくことです。主がお与えになる十字架は、楽ちんなものではないけれど、十字架を背負うということは、主イエスのお働きに参与させていただくということです。あなたにしか担うことのできない十字架がある。だから「自分の十字架」なのです。歯を食いしばって、悲壮感をただよわせて、顔をゆがめて生きる生き方ではない。他の人の十字架とくらべても意味はありません。あなただけの特別の使命があり、あなただけがとりなしの祈りをすべき人がいます。
(3)強いられた恩寵 十字架は、自分が選んだわけではなく負わされるという意味で「強いられた」ものです。確かに十字架がないと楽なようだけど、実は、十字架があるから、利己心や虚栄心やこの世の価値に支配され最も大切なものを失うことから守られているのではないでしょうか。「わたしのくびき(十字架)は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)とは、主がお与えになる十字架であれば、与えたお方が共に担い、責任をもって助けてくださるというお約束です。
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前 奏 - いと高き所に神にのみ栄光あれ - J.S.バッハ
招 詞 詩編 139編23-24節
賛 美 21-3 扉を開きて
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第147編1-11節
賛 美 - 冠も天の座も - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-443 冠も天の座も
聖 書 ルカによる福音書 第9章21-27節 (新共同訳新約 122頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「強いられた恩寵」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-512 主よ、献げます
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 21-79 みまえにわれらつどい
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21-401(1,4節)(アーメン) しもべらよ、み声きけ
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
【バプテストデー】
1873年(明治6年)2月7日、ネイサン・ブラウン、ジョナサン・ゴーブル宣教師夫妻がアメリカ北部バプテスト伝道協会から派遣されて横浜に到着、日本での宣教活動が本格的に幕を開けました。日本におけるバプテスト派の宣教開始を記念して、日本バプテスト同盟では2月の第1主日を「バプテストデー」と定めています。
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