主日礼拝(受難節第2主日)
2月25日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「誰が一番偉いか」
聖 書:ルカによる福音書 第9章46-56節
説教者:小野慈美牧師
弟子たちは、主イエスがやがて地上の王国を作り、自分たちが支配階級になることを願っていました。ですから、主イエスが十字架に向かおうとしておられるときに、「誰が一番偉いか」と議論していたのです(9:46)。さらには、自分たちの意に反する者たちを裁こうとしていました(49-55)。主イエスと共にいることが、特権を持っている「偉い者」であるかのような勘違いをしていたのです。
ところで、主イエスは偉くなることを否定したのではありません。ただし、本当の偉さの定義を変えたのです。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(48)と。そして偉くなるためのひとつの道を示されました(47-48)。この当時、子どもは価値のない存在、愚かな存在と考えられていました。ですから「子どもを受けいれる」とは、その人に仕えてもなんのメリットもないような人を大事にするということです。それが主イエスの、そして父なる神の喜ばれる「偉さ」なのです。
他の人間を蹴落としてでも序列の上にいきたい偉くなりたいという人間の罪、他の人間をけなすことによって自分を偉くしようとする人間の愚かさ。主イエスはそのような愚かな人間をも見捨てず仕えるために十字架につかれました。誰が一番偉いかと議論し裁きあっている弟子たちの罪、そして内心では「誰が一番偉いか」と競いあっている私たちの罪が主イエスを十字架に付けたのです。主イエスの十字架は人間的に見れば無力な敗北でしかありませんでしたが、そこに本当の偉さがあったのです。
わたしたちは、うっかりすると、自分を大きい者の立場に置きます。つまり、子どもや小さい者を「受け入れてあげる」立場に立って考えてしまいがちです。しかし、わたしたちはこの世界でどのような立場にあろうとも、神の前では小さい者なのです。しかし、その小さなわたしたちを神様は大事にしてくださいます。主イエスは命がけでそのことを語り、そのことゆえに十字架につかれました。そのことを知ったわたしたちは、自分がこの世界で偉いとされる立場にあろうとなかろうと、相手が自分の得になろうとなかろうと、接する人に、敬意をもって仕えていくことができます。大きい者として小さい者に仕えるのではありません。自分も小さい者であるけれども、神に大事にされている者として、自分の置かれた状況の中で、できることをさせていただき、与えられた責任を担っていくのです。
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前 奏 - 喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ - J.Sバッハ
招 詞 ローマの信徒への手紙 第8章31-32節
賛 美 21-53 神のみ言葉は
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第91編
賛 美 - イエス イエス - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-443 冠も天の座も
聖 書 ルカによる福音書 第9章46-56節 (新共同訳新約124頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「誰が一番偉いか」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-510 主よ、終わりまで
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-401(1,4節)(アーメン) しもべらよ、み声きけ
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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