主日礼拝(棕櫚の主日)
3月25日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「あなたのための祈り」
聖 書:ルカによる福音書 第23章32-43節
説教者:小野慈美牧師
主イエスがろばの子の背に乗りエルサレムに入ってこられたとき、人々は、歓迎し叫びました。
「ホサナ。…イスラエルの王に」(ヨハネ12:13)。「ホサナ」とは”主は救い(主よ、救いたまえ)”という意味です。「イスラエルの王」とは、人々が、かつてのダビデ王のように、イスラエルの栄光を取り戻してくれる方として、つまり政治的解放者として、イエスに期待していたことを意味します。ところが、その5日後には、同じ人々が「十字架につけろ」と叫んだのです。期待に応えてくれないことがわかったからです。
ユダヤ人たちは、表向きでは正しさのことがらとして主イエスを裁きましたが、心の深いところでは、怒りや憎しみや妬みといった否定的な感情に突き動かされていました。そのマグマを一気に爆発させたのが「十字架につけろ」という叫びでした。
人間関係を壊すのは、悪い人ではなく正しい人です。「正しい人」とは、自分だけが正しいと言い張り、立場の異なる人に「間違っている」と頭から否定する人です。しかし人間の正しさは、いつでも部分的であり、神のような正しさではありません。正しいと思っていても、自分の愚かさや、弱さに気づいていないだけなのではないか。あるいは気づいていても、それを小さく見積もっているだけなのではないか。私たちには、人を裁く資格などないのです。ただ一人、裁く権利を持っておられたのが、主イエスでした。しかし、主は、十字架の上で人々に対する恨みや呪いの言葉を一言も発することはせずに、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
相手の欠点や弱さを指摘し糾弾し裁き合うこと、一面だけを見て判断して相手を批判すること、平気で人を裁き平気で人の悪口や陰口を言うこと、それは「十字架につけろ」と叫ぶことと同じです。なぜなら、自分の正しさだけを根拠にしているからです。しかも、自分は正しいと思っているので、その罪に気づかないのです。人々は、自分は正しい、間違っていないと言い張り「イエスを十字架につけろ」と叫びました。しかし、そういう人間たちのためにこそ、主は、悲しみながらも、ご自分の命をかけて、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈ってくださったのです。あのときも、そして今も。十字架の上の祈りは私のためだったことを知った者として、あらためて言いましょう。「ホサナ」と。
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前 奏 - 喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ - J.Sバッハ
招 詞 イザヤ書 第53章4-6節
賛 美 - ダビデの子ホサナ、栄光と賛美と誉れ - キッズクワイア・ジュニア聖歌隊
賛 美 21-298 ああ主は誰がため
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第113編
賛 美 - 棕櫚の葉 - ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21-313(1,2,3,5節) 愛するイェス
聖 書 ルカによる福音書 第23章32-43節 (新共同訳新約158頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「あなたのための祈り」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-315 茨の冠かぶせられ
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-167(1節,頌栄)(アーメン) 天にいます神よ
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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