主日礼拝
4月22日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「幸い:プライドからの自由」
聖 書:詩編32編1-11節
説教者:小野慈美牧師
①プライド:「神が愛をもって私を造り、私の存在を肯定してくださっているという信頼に立って、自分自身を肯定する」という自己肯定感はとても大切です。しかし、人との関係において「優位に立ちたい」という意味でのプライドは、他者との相対的な関係に左右されるので、自分を不自由にします。このプライドは自分の非を認めることを妨げ、言い訳や責任転嫁をもたらします。聖書を読んで知ることは、人間は過ちを犯す存在だということです。過ちを犯さないに越したことはありませんが、大切なことは、過ちに気がついたときに、どう振る舞うかです。
②罪を隠すことの重荷:「わたしは黙し続けて絶え間ないうめきに、骨まで朽ち果てました」(3)。
神様にはすべてが明らかですから、隠そうとすることは愚かなことです。それにもかかわらず、偽ろうとすることが「罪」なのです。罪を隠し神様を偽ろうとすると、肉体も心も疲れます。自分に罪があることを知りつつも、認めると惨めになるので、罪を拒み続けると、心身の平安を失います。
③罪の告白と赦し:人間にとって一番幸せなことは、罪を赦されることです。そのために必要なことは、罪を告白することです。神は、全く過ちを犯さないことではなく、神の前での正直さを求めておられます。「わたしは言いました『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」(詩32:5)。詩編作者が正直に神に告白した時、神はとがめることをせずに赦してくださった。これが聖書の神です。
④幸いな者:「罪を覆っていただいた者」(1)。神は罪をはっきりと示しつつ、その罪を神ご自身が覆ってくださるというのです。「心に欺きのない人」(2)とは、神に対して隠し隔てがない人です。
ただし、心の中で密かに「神様ごめんなさい」ということはある意味では難しくありません。自分のメンツを保ったままでもできるからです。しかし身近な人に「ごめんなさい」と言うことは容易ではありません。プライドが邪魔をするからです。神に対してだけではなく、場合によっては人に対して自分の非を認めることが真の解放につながる道です。罪を覆われていることを知るときに、みじめにならずに率直に罪を認めることができる。神に愛され重んじられていることは変わらないからです。
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前 奏 - 主イエス・キリストよ、われらを顧みて - J.Sバッハ
招 詞 ヨハネの手紙Ⅰ 第4章19-21節
賛 美 21-580 新しい天と地を見たとき
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第23編
賛 美 - 闇から光へ - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-323(1,2,4,5節) 喜び祝え、わが心よ
聖 書 詩編 第32編1-11節 (新共同訳旧約862頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「幸い:プライドからの自由」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-536 み恵を受けた今は
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-327(1,3節)(アーメン) すべての民よ、よろこべ
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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