主日礼拝・聖餐式
9月2日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「何が正しいか」
聖 書:ルカによる福音書12章49-59節
説教者:小野慈美牧師
主イエスは「平和」ではなく、「分裂」をもたらすために来たと言われます(51)。偽りの平和があるということです。真の平和は、表面的な平穏無事ではなく、神の正義が貫かれることです。そこには、妨げの力も働くのです。わたしたちは神の前で「何が正しいか」(57)を求められています。
①「何が正しいか」:人の評価からの自由 何が正しいかを判断することは、神の前で、人に支配されずに、神が望んでおられることを求める態度です。それを為しえない自分に落胆することもありますが、それは何が正しいかを求めていることの裏返しです。「偽善」(56)とは、人の前で自分をよく見せようとすること、人の評価に縛られていることです。もちろん、他人への気遣いは必要だし、相手がどう思うか配慮することが悪いわけではない。それは「礼儀」です。偽善とは、目的が相手そのものを気遣うことではなく、自己目的になっていることです。「自分は人の目など気にせず、好き勝手に生きているから、偽善者ではない」と反論する人もあるかもしれません。しかし、好き勝手は「正しいこと」ではありません。また、人目に束縛されまいとすることは人の評価を必死に振り払おうとしているという意味で、心の深いところで束縛されているのです。
②何が正しいか:悔い改め 神の前で正直になるとき、自分の罪や偽善に気づかされます。しかし、そこで知ることは、その罪のために、主イエスが十字架につかれたということです。十字架を見るとき、自分の罪、偽善が赦されていることを知ります。赦されているからこそ、ごまかさずに自分の姿を直視できます。神に対して間違っていることに気づいたら、潔く悔い改めることです。
③何が正しいか:人への謝罪 神に対して悔い改めることは、しばしば、人に対して謝ることでもあります。「何が正しいかを判断する」ことは、人に対して自分の非を認めることも含まれるのです。謝るべきを謝らないということは、本当の意味で「正しい判断」(57)ができていないことです。恥をかくまいと取り繕うことは、人の目に支配される生き方から自由になれていないのです。逆説的ですが、自分の罪を知り率直に認めることが、かえって、偽善から守られる道です。人の評価を気にして自分を実際以上によく見せようとあがくことから守られるのです。
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前 奏 - こころを一つに - Satkz
招 詞 フィリピの信徒への手紙 2章1-4節
賛 美 21-56 主よ、いのちのパンをさき
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第119編73-80節
賛 美 - こころを一つに - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-393 こころを一つに
聖 書 ルカによる福音書 第12章49-59節 (新共同訳新約 133頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「何が正しいか」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-544 イェスさまが教会を
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 21-411(1,2節)うたがい迷いの
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21-452(アーメン)神は私を救い出された
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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