主日礼拝・聖餐式
11月4日(日) 午前10時30分より
メッセージ:「二つの身分」
聖 書:ルカによる福音書14章1-14節
説教者:小野慈美牧師
主イエスは、安息日に水腫の人を癒されました。その後食事の席で、招かれた客たちが上席(上座)に着こうとしている姿を見て、最初から上座に座ろうとしてはならないという内容のたとえを話されました(8-11)。この箇所は「謙遜」の勧めではなく、神の国のたとえです。人間に序列をつけ、しかも自分は序列の上の方だと思っている高慢は神の前で引きずり降ろされるという警告です。人間には「二つの身分」があります。
(Ⅰ)「何者でもない者」:「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」(ガラテヤ6:3)。
「何者でもない」とは、人間をおとしめる言葉ではありません。それぞれの役割に敬意を払い、重んじることは大切です。しかし、肩書きや経歴を取り除いたら、人は皆ただの人です。神の前で自分を「ひとかどの者だ」と誇ることほど愚かなことはありません。神の前ではすべて「何者でもない」のです。それは私たちを自由にします。偉い人の前に立っても、びくびくおどおどすることがなくなるし、偉くない人に対して横柄にふるまうこともなくなります。地位のある人に敬意を表さなくても良いということではなく、あらゆる人に敬意を表するのです。「へりくだる」(11)とは、イエス様のまなざしで人を見ていくこと。この世で軽んじられている人、低い立場の人を大事にすることです。12節以下では、見返りを期待できる人だけに奉仕するなと語られました。愛は取引ではありません。取引とは、見返りを期待し、見返りがなければ自分のしたことには意味がないと感じる感覚です。「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」(14)。相手に「何かをしてやった」という意識から自由であることが幸いなのです。私たちは、14節を、与える側に立って理解します。しかし、神の前では、私たちこそ、「お返しができない」者、「何者でもない」者なのです。
(Ⅱ)「神の子」:「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(Ⅰヨハネ3:1)。
ところが、神に何のお返しもできない「何者でもない」私たちが、もう一つの身分を与えられています。それが、すべての人に与えられている「神の子」という身分です。二つの身分を知って生きることが私たち自身と周りの人たちをホッとさせます。賞賛されても天狗にならず、評価されなくても卑屈にならないのです。
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前 奏 - いざともにたたえ歌わん - N.ロースソーン
招 詞 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章26-27節
賛 美 21-56 主よ、いのちのパンをさき
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第1編
賛 美 - すべてのものらよ - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-225 すべてのものらよ
聖 書 ルカによる福音書 第14章1-14節 (新共同訳新約 136頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「二つの身分」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-520 真実に清く生きたい
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 21-72 まごごろもて
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 21-25 父・子・聖霊に
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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