主日礼拝
1月13日 午前10時30分より
メッセージ:「神様は必死です」
聖書:ルカによる福音書15章1-10節
説教者:小野慈美牧師
主イエスのたとえでは、真理を示す為に、しばしば極端な状況設定がなされます。その極端さとは、羊飼いが「99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回」(4)る行為です。100匹を単なる羊の寄せ集めと見れば、一匹いなくなっても大差ないということになります。しかし、羊飼いにとっては、一匹一匹が異なる顔を持ち、それぞれが名前を持った固有の羊なのです。「その一匹」(4)とは100分の一ではなく、他のものでは代わりがきかない「その羊」です。羊飼いは99匹がどうなってもよいなどと考えているのではなく、どの一匹がいなくなっても同じ行動を取るのです。この羊飼いは父なる神であり、神の人間に対する思いが羊飼いの行動によって示されています。無くした銀貨のたとえ(8-10)も、一枚も失いたくないという神の必死さを語っています。
一人の罪人が「悔い改める」(7)とは、悪人が心をいれかえてまともな人間になる(改心)ということではなく、向きを変える(回心)ことです。小さい子どもが、迷子になってうろうろ歩き回っている。その時、自分の名を呼んでいる親の声が聞こえ振り向く。すると、そこに両手を広げた親がいる。その胸の中に飛び込んだとき、親が涙を流して喜んでくれた。これが、罪人が悔い改めることのイメージです。神は、必死になって、迷子の私たちを捜し続けておられます。どんな犠牲を払ってでも、迷子の私たちを呼び続け捜し出そうとしておられます。十字架は、神が、文字どおり血を流してまで、私たちを捜し求める必死な愛の現われに他なりません。
迷っていることも知らずに、あらぬ方向に向かって歩いている方。自分は迷子なんかではないと言い聞かせて頑張っている方。あるいは、迷子であることは知っていても、自分の力で神を捜しださなければダメなのだと必死にもがいている方。知ってください。信仰とは人間が神を見い出す前に、まず神が必死にわたしを捜しておられることに気づくこと、そして、呼んでいる神の声に応えて振り向くこと、その声の方向に自分の体を向けることです。するとそこには、両手を広げて大喜びで迎えて下さる神がおられます。父なる神の胸に飛び込むとき、天では、「あの子が帰ってきたぞ」「あの子が見つかったぞ」というニュースが、何よりも「大きな喜び」(7)として大々的に報じられるのです。
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前 奏 - ほめたたえよ、力強き主を - C.H.Rinck
招 詞 エレミヤ書 第29章11節
賛 美 21-7(1,3,5節) ほめたたえよ、力強き主を
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第138編
賛 美 - 主に向かって歌え - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-224 われらの神 くすしき主よ
聖 書 ルカによる福音書 第15章1-10節 (新共同訳新約 138頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「神様は必死です」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-530 主よ、こころみ
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-187(アーメン) よろこびの歌で
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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