主日礼拝
2月24日 午前10時30分より
メッセージ:「取るに足りないしもべ」
聖書:ルカによる福音書17章1-10節
説教者:小野慈美牧師
1)僕とは何か(7-10節):「畑を耕すか羊を飼うかする僕」の「僕」とは奴隷のことです。当時は、奴隷制が行われていました。奴隷は主人の所有物ですから、主人が僕に命令するのは当然のことです(7-9)。弟子たちは奴隷ではないので、「そりゃ当然でしょう」とうなずいて聞いていたに違いありません。すると、主イエスは「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(10)と言われました。つまり、奴隷が主人に仕えるように、主イエスの弟子は主の僕として生きるのだというのです。
2)僕として生きるための信仰(5-6節):信仰とは、自分が神様そして主イエスに対しては僕であることを忘れずに生きるということです。「取るに足りない僕」とは無益なつまらない存在という意味ではなく、「報酬を受ける資格の無い者」という意味。また、「しなければならないことをしただけです」とは、「当然払うべき負債をお返ししただけです」という意味です。キリストは、わたしたちのために命を与えてくださいました。「キリストは・・・僕の身分になり、・・・十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。わたしたちは、ご自身の命という大きな代価を払って買い取られ、主イエスの所有とされました。それは罪の奴隷から解放されて、自由な僕として生きるためです。この信仰がないと、僕の心を失い、自分が主人になってくるのです。
3)僕として生きることは具体的にどうすることなのか
①小さい者をつまずかせない(1-2):たとえば、親権は、命の源である神様から委託されたものです。真の所有者は神様です。親権は、神の権利である「神権」のもとにあります。親自身が神の僕であることを忘れると、虐待が起こってくる。信仰者も同じです。あたかも自分が何もかもわかっているような態度で、信仰生活の短い人を威圧するのは、僕であることを忘れているしるしです。牧師も然り。
②他者の罪を赦す(3-4):赦すというのは、水に流すということではないし、罪をあいまいにすることでもありません。相手が悔い改めることを助けることであり、相手を何とか生かそうとする態度です。どうしたらそれができるのでしょうか。それは自分も主イエスに赦された僕であることを忘れないことです。
※礼拝視聴にはパスワードが必要となります。お申し込みは こちら
画面内のフルスクリーンをクリックすると全画面になります。escキーで元に戻ります↑
Tweet
前 奏 - プレアンブルム - H.シャイデマン
招 詞 詩編 第65編5節
賛 美 21-149(1,3,5節) わがたまたたえよ
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第111編
賛 美 - キリストの愛で - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 21-364(1,4,5,6節) いのちと愛に満つ
聖 書 ルカによる福音書 第17章1-10節 (新共同訳新約 142頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「取るに足りないしもべ」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-566 むくいを望まで
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-28 み栄あれや
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
〒221-0804
神奈川県横浜市神奈川区栗田谷42-43
TEL 045-323-2967
FAX 045-323-3979