主日礼拝
6月16日 午前10時30分より
メッセージ:「神の国のどんでん返し」
聖書:ルカによる福音書18章9-17節
説教者:小野慈美牧師
このたとえの「ファリサイ派の人」はまじめで立派な人。「徴税人」は敵の手先となって同胞から税を巻き上げる裏切り者であり、神から最も遠い人とみなされていました。ある聖書学者は、 ファリサイ人が「立って心の中でこのように祈った」(11)を、「一人離れて立って祈っていた」と訳しています。つまり、他の人たちから離れて、神殿の至聖所近くに立って声を出して祈ったということです。11-12節は嘘でも誇張でもありません。しかしこれは神への祈りではなく、自分の正しさを周りの人に誇っているのです。一方、徴税人は、聖なる場所から「遠くに立って」人目も気にせず、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と叫んだ。ここでたとえが終わります。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは」と主が言われたとき、人々は「ファリサイ派の人」という言葉が続くと予想しました。しかし実際に聞いた言葉は「この人であって、あのファリサイ派の人ではない」でした。ここで、どんでん返しが起こりました。主イエスは、まじめに生きること自体を否定していないし、徴税人の不正な税の取り立てを肯定したのでもない。「義とされ」る、つまり、神に受け入れられるのは、行いによるのではなく、一方的な神の恵みによる。まさにその一点において徴税人は正しいのだと主イエスは言っておられるのです。
私たちは、たとえの結論を知っていますから、「神様、私は自分の罪深さをよく知っています。私はこのファリサイ人のように高慢な者ではないことを感謝します」と言いかねない。「自分はまともな罪人です」と誇るならばファリサイ人と同じなのです。自分で自分を義としたとたん、どんでん返しが起こる。では、どうしたらよいのか。
それが「子供のように神の国を受け入れる」ことです。「子どものように」とは、人に対してではなく、神の前で隠さずかっこつけず、「私の罪を赦してください」と言うことです。そして「神の国を受け入れる」とは、神の一方的な憐れみによってその罪が赦されたことを信じることです。
いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。(詩32:1-2)
神から遠く離れていると感じている人にこそ主は言われます。「十字架によってあなたの罪は赦されている。」この神の国の宣言を、「子どものように」大胆に受け入れるならば、義とされて家に帰ることができるのです。
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前 奏 - 来たれ聖霊よ - N.グリニー
招 詞 詩編 第33編1-3節
賛 美 21-57(1,3,4節) ガリラヤの風かおる丘で
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第119編9-16節
賛 美 - 朝露には主の愛宿り - ブラームス ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 21-406 聖霊ゆたかに
聖 書 ルカによる福音書 第18章9-17節 (新共同訳新約 144頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「神の国のどんでん返し」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 21-449 千歳の岩よ
献 金
感謝祈祷
賛 美 21-28 み栄えあれや
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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