主日礼拝
7月7日 午前10時30分より
メッセージ:「見えるようになりたいのです」
聖書:ルカによる福音書18章35-43節
説教者:小野慈美牧師
盲人が物乞いをしていると、あたりがざわつき始めました。「いったい何事ですか」(36)と尋ねると、誰かが「ナザレのイエスのお通りだ」と言いました。その名を既に聞いていた彼は叫びました。「わたしを憐れんでください」。人々は黙らせようとしましたが、主イエスは盲人を呼びました。「何をしてほしいのか」(41)という問いは、冷たく感じられます。しかし、主イエスは、人が一歩踏み出す人格的な交わりを求めておられるのです。「主よ、目が見えるようになりたいのです」という彼の求めに応じて主は目を開きました。
<イエスと出会うことによって起こる三つの「見えるようになる」(気づく)こと>
①憐れみを必要としていることに気づく:「私を憐れんでください」の「憐れみ」は、「エレエオー」というギリシャ語で、目上の者に対して慈悲を求める態度です。人々が黙らせようとしたにもかかわらず、彼が叫び続けたのは、憐れみがなければ自分は生きていけないという切実な心の渇きがあったからです。
②憐れみを与えられていることに気づく:マタイ20:34には「イエスが深く憐れんで」と書かれています。「憐れんで」と訳されている言葉(スプランクニゾマイ)は、直訳すると、内臓が痛むという意味です。上から見おろす憐れみではなく、相手の痛みを同じ立場で共感する友としての心です。主イエスは、盲人の叫びに、身体的な苦しみだけではなく魂の痛みを聞き取り、わがことのように心を痛めました。これこそが、盲目の癒し以上に大きなことだったのです。主イエスは当時のすべての盲人を癒したわけではありません。しかしそれらの人々にも主の憐れみが与えられていることの象徴的なしるしとして、この盲人を癒されたのです。「あなたも神に愛され、赦されている、大切な人だよ。自暴自棄になっちゃだめだよ。」と。
③歩むべき道に気づく:見えるとは、単に視力が戻ることではなく、主イエスに従う道が見えるようになることです。この後、彼は主に従い、数日後の棕櫚の日曜日にエルサレムに着き、主の十字架の歩みを共にしたのです。おそらく、その後復活のイエスに出会って、初代教会の基礎を築く一員になったでありましょう。
私たちが自分の弱さや罪に苦しむとき、また、言い知れぬ孤独感にさいなまれるとき、主イエスを呼び求めましょう。そのとき魂の叫びに耳を傾け、心からの共感を示してくださるお方がおられることを知ります。それが「見えるようになる」ということです。そのとき、主は私たちの歩むべき道を示し続けてくださいます。
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前 奏 - ただ汝のみ、主イエス・キリストよ - J.パッヘルベル
招 詞 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節
賛 美 83 聖なるかな
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第37編1-6節
賛 美 - こすずめも、くじらも - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 425(1,2,4,6節) こすずめも、くじらも
聖 書 ルカによる福音書 第18章35-43節 (新共同訳新約 145頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「見えるようになりたいのです」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 451 くすしきみ恵み
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