年
11月3日 午前10時30分より
メッセージ:「命を選ぶ」
聖書:申命記30章15節-20節
説教者:小野慈美牧師
①「祝福と呪い」(19)「神の戒めを守れば祝福し、偶像崇拝をするならば呪う」(16-18)という内容は、脅しのように聞こえます。しかし、戒めを守ったら、そのとき初めて祝福してやろうという「条件」なのではありません。すでに、神があなたがたを一方的にお選びくださり、祝福しているのだから、そのことを感謝して喜んで神に従うことが、すでに与えられている祝福を享受する道なのだということです。
例えば、親は子どもの健康を考えて、バランスの取れた食事を提供します。子どもはそれを感謝して食べれば良い。しかし、もし、子どもがその食事を拒んで、好きなお菓子ばかり食べていたら、健康を損ねます。つまり、神の裁きとは、「従わないと罰するぞ」という脅しなのではなく、神の恵みを拒んだことの結果として生じることなのです。
②「命を選ぶ」(20)とは、神の戒めに従うことです。神に従わないことは、一見、神の束縛から自由に生きられるように思います。しかし、実際は、神ならぬもの(偶像)を神とすると、それによって心を支配され、まことの命を失うのです。神はエデンの園でアダムに言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創世記2:16-17)と。なぜ、食べてはならない木をわざわざ作って、食べるなと言われたのか。それは、神が人間をロボットとしてお創りになったのではないからです。自由に選ぶ可能性がないところには、愛は成立しません。神は、人間を愛する故に、ご自身にそむく可能性をさえお与えになったのです。
③十字架の意味 :しかし、残念ながら、人間は間違った選択をしてしまいます。そのような者をも、なお追い求め、神との失われた交わりを回復するために、神は独り子を世に送られました。放蕩息子(ルカ15:12)は、自由を用いて父の家を離れました。しかし、父親はそれでも息子の帰りを毎日待っていました。息子が我に返って、方向転換をして家に近づいたとき、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて走り寄って」、何の条件もつけずに迎え入れました。中東では大人が走るという行為は、実に恥ずべきことなのです。父親の払った犠牲は、十字架を象徴しています。神は、一度そむいた者でさえ、再び「命を選び」、神に立ち返ることを待っておられます。
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前 奏 - みことばもて主よ - D.ブクステフーデ
招 詞 詩編 86章11節
賛 美 56 主よ、いのちのパンをさき
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第114編
賛 美 - わが魂よ、主をたたえよ - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 170(1,3,5節) わが魂よ、主をたたえよ
聖 書 申命記 第30章15-20節 (新共同訳旧約 329頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「命を選ぶ」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 513 主は命を
献 金
感謝祈祷
聖 餐 式 賛 美 81(1,2節) 主の食卓を囲み
聖書朗読と感謝祈祷
配 餐
賛 美 主イエスはきずな
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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