12月8日 午前10時30分より
(アドベントⅡ)
メッセージ:「幸いの根拠」
聖書:ルカによる福音書1章39節-56節
説教者:小野慈美牧師
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信仰者にとってマリアは聖母ですが、彼女と同時代の人たちからは、「ふしだらな女」と見られて当然でした。では、マリアが自分を「幸いな者」(48)と言った根拠は何なのでしょうか。それは、信頼と感謝です。
1)信頼:神の言葉に対する信頼
天使の御告げを聞いたマリアは、よくわからないので「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34)と言いました。「よくわからない」のは信じないことではありません。私たちの人生にも、よくわからないことが起こります。しかし「神様は約束を守る真実な方だ」と信頼するのです。マリアは天使の語る「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28)という言葉を信頼したのです。エリサベトも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と言いました。神様は見えません。しかし、見えないから不確かなのではありません。実は人間同士でも、相手の見えない部分を信じているのです。「この人は今まで自分の言葉に真実だったから、今の言葉も信頼しよう」と思うのです。
よくわからない中を生きるときも、「恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉に信頼する。これが幸いの根拠です。
2)感謝:へりくだりから生まれる感謝
「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(48)とは、自分を卑下した言葉ではありません。人間は皆、神の前では低い存在です。その低い自分に神が目を留めてくださるという驚きから生まれる感謝が、幸いの根拠です。「思い上がる者」(51)とは、高慢な者、神を畏れぬ者です。「権力ある者をその座から引き降ろし」とは、権力ある者も、その座を離れれば、ただの人になることを忘れるなということです。地位や立場が、その人の価値や質を決めるのではないのです。
反対に身分の低い自分にも神が目を留めて大事だと言ってくださる。その意味での自分の偉大(49)さに目が開かれるとき、突き抜けた自由と喜びが与えられます。神から与えられる偉大さを知らないと、自分で自分の偉大さを作りたくなるのです。神は私たちを「受け入れて、憐れみをお忘れになりません」(54)。「憐れみ」は、「真実」とも訳せる言葉で、上から見下ろす態度ではありません。むしろ、神はへりくだって私たちと同じ肉体を取り、この世界に来られました。それは、私たちを大きくしてくださるためでした。
前 奏 - 来り給え異邦人の救主よ - D.ブクステフーデ
招 詞 イザヤ書 第9章5節
賛 美 248 エッサイの根より
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第27編1-4節
賛 美 -神のひとり子を(For unto us a child is born)-メサイヤ12番 聖 歌 隊
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」
(イザヤ9:5)
分かち合い
賛 美 257(1,3節) 目覚めよ、高く歌え
聖 書 ルカによる福音書 第1章39-56節 (新共同訳新約 100頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「幸いの根拠」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 175 わが心は
献 金
感謝祈祷
賛 美 229(1,3,6節)(アーメン) いま来たりませ
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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