12月15日 午前10時30分より
(アドベントⅢ)
メッセージ:「光の訪れ」
聖書:ルカによる福音書1章57節-80節
説教者:小野慈美牧師
※礼拝視聴にはパスワードが必要となります。お申し込みは こちら
右下のフルスクリーンをクリックすると全画面になります。escキーで元に戻ります↑
老夫婦ザカリアとエリサベトに男の子が生まれました。周りの人々は、父の名を取って、ザカリアと名付けようとしました。ところが、母エリサベトは「名はヨハネとしなければなりません」(60)と言ったので、人々は父ザカリアに「この子に何と名をつけたいか」(62)と手ぶりで尋ねました。ザカリアが板に「この子の名はヨハネ」(63)と書くと、彼の口が開き、神を賛美し始めました(68-79)。
68-75節はイスラエルを救う方が現れるという内容であり、76-79節はヨハネの使命を語っています。
ヨハネの誕生は、メシアに先立ってその到来を告げる者が現れるという旧約の預言の成就であり、そのメシアは「光」として来られ、「高いところから曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(78-79)のです。その光はどのような光なのでしょうか。
1)罪を照らす光:ヨハネは、メシアがもたらすのは、「罪の赦しによる救い」(77)であることを知らせます。あらゆる問題の根源は、自己中心という罪です。自己中心が、個人と個人、国と国との関係を壊しています。しかも自己中心は、絶えず自己正当化するので、罪を認めることがいっそう難しくなります。「対立の原因は自分ではなく、相手にあるのだ」と断じる罪がうずまいています。罪に気づかないことは実は不幸なことです。主イエスは、「光」としてこられ、人間の罪を照らし出します。しかし、それは照らした罪を赦すためでもあります。自分が神の前では罪ある者であり、その罪が赦されたことを知ることによって、わたしたちは自己中心・自己正当化への執着から解放され、「平和の道」(79)へと歩んでいくことができるのです。「自分に非はない、悪いのは相手だ」という態度に終始する限り、光に気づかず、結果として闇の中にとどまることになるのです。ヨハネ3:19-20参照。
2)闇を照らす光:わたしたちの世界は闇が覆っており、暗く光が見えません。いったい、いつまでこんな状況が続くのだろうとため息をつきたくなることがあります。しかし、私たち個人の人生も、この世界も、愛と真実の神が創造し、支配しておられます。そのしるしが御子イエス・キリストです。飼い葉桶の中の幼子こそ、神が、人間の罪にもかかわらず、この世界を見捨て給わないという決意の表れであり、「人間を照らす光」(ヨハネ1:4)なのです。そして、その「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハネ1:5)[聖書協会共同訳]のです。
前 奏 - 来りたまえわれらの主よ - C.フランク
招 詞 イザヤ書 第9章1節
賛 美 259(1,2,4節) いそぎ来たれ、主にある民
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第31編1-9節
賛 美 - 鐘がなります - ジュニア聖歌隊
分かち合い
賛 美 257(1,2節) 目覚めよ、高く歌え
聖 書 ルカによる福音書 第1章57-80節 (新共同訳新約 101頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「光の訪れ」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 256(1,5,6節) まぶねのかたえに
献 金
感謝祈祷
賛 美 247(1,4節)(アーメン) 今こそ声あげ
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
〒221-0804
神奈川県横浜市神奈川区栗田谷42-43
TEL 045-323-2967
FAX 045-323-3979