1月12日 午前10時30分より
メッセージ:「平和の王の入城」
聖書:ルカによる福音書19章28節-44節
説教者:小野慈美牧師
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37弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
主イエスがエルサレムに向かって行くとき、弟子たちはこのように賛美しました。ルカ2:14では天使たちが「いと高きところには、栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しましたが、ここでは「天には平和」と歌われています。この世界の現実だけを見ると、主イエスの誕生の時に天使たちが賛美した「地には平和」という言葉は、単なる理想でしかないと思われます。しかし、だからこそ、「天には平和」が重要なのです。この「天の平和」が揺るがされることはありません。どんなに人間の罪が、地上の平和を損なうようなことがあっても、天には平和があります。そして、その平和を地にもたらすために主イエスは来られました。その平和とは何よりも、人間の罪を赦すということ。そして、赦された者同士が、互いを受け入れ合うことによって生み出されるものです。
主イエスをほめ讃えた弟子たちが、四日後には主イエスを見捨てて逃げました。しかし、主を裏切るという罪を犯した弟子たちをも主は見捨てずに、罪を赦し、再び弟子として生きることを可能にするのが、天の平和です。また、ユダヤの群衆たちも、当初は、ユダヤをローマの支配から解放してくれるメシアが来たと勝手な期待をイエスに押しつけ、その期待が裏切られたといって、イエスを十字架につけました。その彼らのために「父よ、彼らをお赦しください」と主が祈ったのが天の平和です。
地の平和は、人間が作り出すのではありません。むしろ、自分自身のそして人間の弱さ、愚かさを知った者が、「主よ平和をください」と祈り求めるところに与えられるのです。
聖徳太子は「平凡な人であることが平和の原点だ、自分が利口だと思うから争いが起こる」と言いました。「自分が利口だと思う」とは、自分が上だと思い、いつでも自分が正しいと思うことです。そこから争いが起こるのです。「正しいことを言っているのだから、何が悪いんだ」というのは、実はきわめて傲慢な態度なのです。「自分が正しいと思うことが、神様の目から見ても正しいかどうかはわからない」という危機感を失わないこと、それが神を畏れるということです。平和のみなもとは、神に対する畏れと罪を認める謙虚さ、そして相手に対する敬意です。個人の間でも、国家の間でも同じです。
前 奏 - あかつきの空の美しい星よ - Satkz
招 詞 詩編 第67編2-3節
賛 美 51 愛するイェスよ
主の祈り
交 読 文 交読詩編 第146編
賛 美 - シメオンの歌 - 聖 歌 隊
分かち合い
賛 美 14 たたえよ、王なるわれらの神を
聖 書 ルカによる福音書 第19章28-44節 (新共同訳新約 147頁)
祈 祷
黙 想
説 教 「平和の王の入城」 小野 慈美 牧師
祈 祷
賛 美 578 平和を求めよう
献 金
感謝祈祷
賛 美 29(アーメン) 天のみ民も
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
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