7月26日 午前10時30分より
メッセージ:「持っていても持っていなくても」
聖書:フィリピの信徒への手紙3章5-9節
説教者:浅輪一郎神学生
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今日は、「イエス様を信じることからもたらされる恵みとはそして希望とは何であるのか?」という疑問と向き合いたいと思います。具体的には、使徒パウロと、ボンヘッファーという牧師によって語られた言葉からの導きを祈り求めたいと思います。
(使徒パウロ)
今日の聖書箇所フィリピの信徒への手紙3章の5節と6節において、パウロは神様から恵みを頂くための特権を「持っていた」と言っています。しかし、7節、8節においてパウロは、そのような特権には「もはや全く意味が見い出せなくなった」と、そして9節において、彼にはそのような特権ではなく「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」があると述べます。
(ディートリッヒ・ボンヘッファー)
彼はドイツのプロテスタントの牧師神学者です。精神科医・教授の子として生まれ、いくつかの神学校で学び、大学講師、牧師研修所所長を務めました。第二次世界大戦中は抵抗運動に加わり、1943年4月5日に逮捕され、終戦直前の1945年4月9日に処刑されました。享年、わずか39歳でした。獄中では、多くの書簡や遺稿を残しました。このようなボンヘッファーの経歴だけをみますと、確かにボンヘッファーも、いわゆる特権というものを「持っている」人のように思えます。しかし、獄中で書かれた「私は何者か」 という詩を読みますと、その印象は一変します。
パウロは、自らをかつて「持っている」人であったと証言していました。ボンヘッファーにつきましては、私ばかりではなく、詩の中で登場する看守でさえも、彼が「持っている」人であると思っていました。
しかし、実際の二人は、私たちが思い描くような「持っている」人ではありませんでした。二人はこの手紙または詩を牢獄の中でしたためていたからです。つまり、二人はいつ命が奪われるか分からないような「絶望」の中に置かれていたのです。それでもなお、二人からは、「私たちにはある」と確信をもって示し出された言葉がありました。それが、パウロによりますと9節の「キリストへの信仰に基づいて神から与えられる義」であり、ボンヘッファーによりますと、詩の中に書かれています「私が何者であれ、あなたは私を知りたもう。私はあなたのものだ」という言葉でありました。そして、私たちに語りかけられている言葉に置き換えますと、「神はあなたと共にいる」という言葉であるのです。たとえ、何か特別なものを、持っていても、持っていなくても、神様は私たちと共にいて下さる。たとえ、どのような状況に置かれていても、それでもなお、神様は私たちと共にいて下さる。それは神様からの約束です。その約束こそが、神様がこの世に遣わされたイエス様を通して、私たちにもたらして下さった恵みです。そして、その恵みは「きっと全ての方々にもたらされる」と思える希望をも、もたらして下さいます。
前 奏 - 重荷を負う者よ 誰でも来なさい - Satkz
招 詞 哀歌3章31-33節(下記)
賛 美 432(1,2) 重荷を負う者
主の祈り
聖 書 フィリピの信徒への手紙3章5-9節(新約p.364)
祈 祷
黙 想
説 教 「持っていても持っていなくても」 浅輪 一郎 神学生
祈 祷
賛 美 563 ここに私はいます
献 金 (※礼拝堂への入退場時にお捧げください)
感謝祈祷
賛 美 2020年主題讃美歌 神はあなたと共にいる (歌詞が開きます)
祝 祷 小野 慈美 牧師
後 奏
分かち合い
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31 主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。
32 主の慈しみは深く懲らしめても、また憐れんでくださる。
33 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」
(哀歌3:31-33))
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